うんざりブログ

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チンポテト

 

「チンポテト」
 目の前のテーブルの上には奢侈な料理がところ狭しと並べられている。その官能的な光景に舞い上がった私は、大皿に山盛りの細長くカットされたジャガイモのフライを手に取ると、小さな容器に用意されたケチャップとマヨネーズの間を泳がせるようにして、何となくその言葉を口にした。
 その造語の意味は実のところ私自身にもよくわかっていなかった。チンポとは男性器の俗語であり、ポテトはジャガイモのことだ。ここではもちろん卓上のフライドポテトについて述べている。男性器とナス科の植物の合成は何を意味しているのだろうか。
 インターネット上のやり取りでは『チンコ』のような男性器の呼称が『男性』そのものを指し示すことがある。そのことを踏まえれば『チンポテト』は『オスのジャガイモ』というように解釈できるかもしれない。しかし残念ながらジャガイモは雌雄同株の植物種でありオスとメスの区別はなかった。
 そしてその言葉の持つ意味がいかなるものであれ、この瞬間において口に出すことの意義についてはもはや迷宮入りであった。だから『チンポテト』は、発生に伴った口腔内での空気の破裂を引き起こし、その心地の良い振動の余韻を残すだけでよかった。あとは中空をあてもなく漂い、周囲の喧騒に掻き消えてしまうはずだったのだ。
 しかし一人の友人が私にこう言った。
「やはり君の言葉には含蓄があるね」
 この時の私はきっと初めて男と手を繋ぐおぼこのように紅潮していたに違いない。一瞬にして大量のノルアドレナリンが分泌され交感神経が多分に刺激されていた。全身が熱を帯び、早鐘のように鳴る心臓の鼓動は身体の内側で痛いくらいに響いていた。気がつけば友人の言葉に釣られて他の者たちもこちらを見つめ、そうだそうだ、と賛同の言葉を口にしており、まさに私は天国から地獄、絶望の直滑降を味わっていた。
 チンポテトの含みとは。脊髄反射で生じた言葉に意味なんてあるわけないじゃないか!声には出さずに何度か繰り返してみても、頭蓋骨の中の伽藍洞でやはり虚しく反響するだけだった。
 私はただその場当たり的で低俗な雰囲気を楽しみたかっただけだった。壮齢の男が猥雑に言葉を消費していく。まるで一切の教養を持たないかのように粗野な振る舞いをしていく。それはこれまで整然と積み上げてきた人生に小便を引っ掛け、再び野蛮な自然へと連れ出す行為であり、純然たる生の追体験であった。
 いいや、これも違う。正しくない。理屈をこね回す必要なんてどこにもない。事はもっともっと単純で明快だった。ただただ馬鹿馬鹿しい下らなさだけが必要だった。私は、まさにあの瞬間チンポテトを言いたかった、それだけなのだ。だから理由などを追い求めても永遠に見つかるはずなどなかった。
 チンポテトこそが過程であり手段であり目的でもあった。それが全てだったのだ。だから他の誰が笑う必要もなかった。笑わせるつもりなどなかった。ユーモアの欠落こそが最大のユーモアであり、その行為は無意味であるがゆえに最高の芸術となりえたはずだった。
 しかし私の言葉には意味が見出されてしまった。その言葉を通じて私自身にも、はたまた私自身を通じてその言葉にも、不要なイデオロギーが付加されてしまっていた。それはもちろん彼らと私との関係性の積み重ねによるところが大きいのだろう。たしかに平生の私はああだこうだと小難しい理屈を述べていた。彼らはチンポテトの背後に普段の私の幻影を見ていたということだ。
 もはや私と彼ら、そしてチンポテトの関係性は定義されてしまった。チンポテトでなく同様の言葉だとしても同じ結果が待っているだろう。私には馬鹿馬鹿しさを謳歌する権利など与えられていなかったのだ。
 テーブルの料理はほとんど片づけられていた。大皿に盛られたポテトはまだ残されていて、すっかり冷え切ったために、萎びてしまっていた。私と言えば、定期的にそれをつまんでは口に運ぶだけで、友人たちの会話に積極的に参加することもせず、ほとんど押し黙っていつまでも小さく震えていた。

寒さ

 

「テレビのニュースなどでは連日『二十年に一度』と報道されていたような気がする。大きな寒波に見舞われた年だった。たしかに現在に至るまであの時よりも寒い冬はまだ来ていない。
 しかも、まさにその冬一番の積雪を記録した、そんな日に、私はとぼとぼと一人で帰り道を歩いていた。お昼過ぎだというのに空は薄暗かった。分厚い雲が太陽を完全に隠していたからだ。
 だから辺りに人の気配はなかった。こんな寒空の下にいるのは、幾度目かの別れ話の果てに彼氏の家から飛び出してきた女子大生くらいだった。かろうじて冬の装いをしてはいたものの、この寒さでは無防備も同然だった。
 おまけに捨て鉢な気分だった。わずかに残っている足跡を追うこともせずに、深く積もった雪を踏み抜くようにして歩いた。ブーツ越しに伝わる冷たさが、痺れた指先をくすぐるように、チクチクと刺した。身体に吹きつける大粒の雪は、溶けることもなくそのまま凍りついて、ベージュのコートを白く飾った。私は泣いていた。
 呼吸が乱れているのは、ときどき大きなしゃくりをあげていたからだろうか、それとも体験したことのないほどの寒さのためだろうか。滲む視界と同じように、頭の中もぐちゃぐちゃに混乱していた。何かを考えることが怖くて、だからこの身を刺すように冷えきった空気が却って心地よかったのだ。私に必要なのはなにか別の苦痛だった。
 このまま死んでしまうのであればそれでもいいと思った。長く同じ時間を過ごしてきた相手を失った者は、半身を失っているも同然ではないだろうか。二人の間でのみ構築された思い出は二度と共有されることはなく、やがて永遠に失われてしまう。それが私という人間の多くを占めていたのであれば、私にはやはりポッカリと大きな穴が開いているに違いない。ともかく私は絶望に立たされていたのだ」
 ここまで書いて思わず笑いが込み上げてしまった。若き頃の自分というものはかくも恥ずべきほどに、そして羨ましいほどに乙女であったのか。その純真を一体どこに置き忘れてきたと言うのだろう。当時の感情を記憶として思い出すことはできるけれど、それは色褪せていて全く鮮度を失ってしまっている。
 時間はすべてを、残酷なまでに、解決してしまう。人生を変えてしまうような鮮烈な記憶でさえも、たとえその歩みは遅くとも、確実に風化させていく。きっと私たちがすべてを失わずにいられるのは、その人生があまりに短いからだ。もしもこの生命が永遠に続くとしたら、きっとすべてが溶けていってしまうのだろう。
 今年も雪が降る。来年も雪が降る。その次の年も。その次も。いまも思い出すあの日の寒さは、一体いつまで忘れずにいられるだろうか。

論理的な愛

 

「あなたのこと愛しているわ」
「僕だって負けないくらい愛しているさ」
 二人の口から紡がれる言葉はお互いの心を存分に焦がしてから、窓の外に広がる闇夜に溶けて消えた。あたりにはまだその余韻が漂い、だんだんと近づいていたはずの冬もくるりと踵を返したかのように、寒さなど微塵も感じなかった。
 ガラス窓を隔てた外の世界には、二人の言葉の溶け込んだ空気が、さらに下を見れば美しい夜の街の景色が広がっていた。彼らはいま街を一望できる展望台の中にいた。展望台はそれ自体が美しくライトアップされた楼閣であり、もちろんその内から眺める景色もとびきりのものだった。
「本当にあなたのことを想っているのよ」
 女はそう言って繋いだ手を強く握る。彼女の薄茶色の瞳は濡れているようだった。眼の縁に溜まる液体の張力は少しずつ増していき、やがて地球の重力に負けたとき、物理法則に従って、美しい曲線を描く白い頬を静かに伝った。
 男は彼女の顔に手を添えると、親指を使って流れた思いの跡を優しく拭った。
「僕も君なしで生きていくことなんて考えられない」
 何ひとつ混じりっ気のない心からの言葉だった。男も女を深く愛していた。
「もちろん私もよ。あなたを看取るのだけは絶対にごめんだわ」
「それは僕もだ。きみより少しだけ先に死ぬことにしよう」
「あら嫌だ。わたしの方が絶対に先よ」
「僕が」
「私が」
 二人で声を合わせてふふふと笑った。それでも口調は真剣そのものだった。相手が自分と同じように思っていることをお互いによくわかっていた。
 頭のなかをぐるぐると回っていた問題が解決し、疑いようのない結論が導かれると同時に、二人は競うようにして宣言通りの行動を実行することにした。
 張り詰めたものが切れるような音を残して、夜の空に二人の身体が舞った。それは物理法則に従って、美しい街の光に溶け込んでいった。

僕は ついてゆけるだろうか

 

 インターネットを中心に日々さまざまな提言が行われ悪しき伝統や古くからの習慣が姿を変えようとしている。個人が手軽に全世界に意見を発信できる時代になり、不正な行いはたちどころに衆人環視の下へと晒されることになった。かつて法律よりも優先していた『空気』や『雰囲気』というのはある種の権力を失った。誰かの生み出した『正しさ』を強制されていた人々にとっては希望の時代の到来だ。

 ハラスメントという言葉はもはや耳馴染みの言葉となった。セクハラ、パワハラアルハラとはじまって現在ではいったいいくつのハラスメントが存在しているのだろうか。到底すべてを把握することはできない。『ハラスメント』という言葉の増加はそれだけ多くの人が救われる可能性を示している。それはすなわちある被害を受けていた人々の苦しみが言葉として形を持ち世間一般に認識されるということであるからだ。

 社会はどんどんと変化していく。きっと喜ぶべき変化のはずに違いない。世界は陽が昇るごとに綺麗になっていく。やがては不当に虐げられる人が存在しない真に理想的な日々が訪れることだろう。そう願いたい。

 この令和の時代の流れに乗れない者は平成の遺物として扱われることになるのだ。彼らは社会に不要な毒を垂れ流す公害であり、時代遅れで頭の固い老害だ。残念ながらまさに僕自身がそうなるであろうことを感じている。

 

 僕の中にはこれまでの社会の在り方が常識や規範として根付いている。もちろんすべてを完全に受け入れているわけではなく多少の不満や疑問こそあるものの概ね納得してきた。対照的に世界の緩慢な曖昧さを良しとせず決して妥協することのなかった人々が悪習へと戦いを挑んでいる。

 しかし時代の大きな変化というのは、自身の世界の根底的な揺らぎだ。これまで自分や周囲を省みることのなかった代償だろうか、自分の感覚を疑うことなく無批判に生きてきたツケを支払う瞬間が刻一刻と近づいている。この先の綺麗な社会に僕はきっとついていくことができない。僕の中で凝り固まった価値観がアップデートを拒んでいる。

 残酷であるとは分かっていても家畜の肉を食べ続け、女性には『女らしさ』を求め、僕は『男らしく』あろうとする。悪趣味な冗句で笑って、遠くの他人の痛みには鈍感なままだ。

 思えば僕などは生きづらさを感じたことがなかった。

 

 現状の僕を見れば奨学金により多額の借金を抱え、しがないフリーターとして決して裕福ではない生活を送っている。僕も声を上げるべきだろうか?何かを社会や他人のせいにするのは難しくないような気もする。家庭環境だって良くはなかった。でも僕はやはり人生を概ね納得している。自分の努力次第で何とでも出来るくらいの環境は与えられていたはずだ。だから僕は少なくともこれまで幸福だったと言えるだろう。

 環境によっては努力ではいかんともし難いことだってある。誰かに虐げられて耐えられないような苦痛を感じることもある。そうなれば必然的に生きづらさを覚えてしまう。社会や他の人間を憎んでしまう。人生に絶望してしまう。

 人生の批判を自身に向けることのできる恵まれた環境と、世界を肯定的に捉えることのできる自分の運の良さに感謝しなくてはいけない。「明日から本気出す」という使い古されたインターネット・ミームを屈託もなく使えるのは実は簡単なことではないのかもしれない。

 ちょうど明日から新年度がはじまる。そういえば去年も僕は明日から頑張りたいといったような漠然とした内容の記事を書いていた。今年の秋は短かった - うんざりブログ

 もちろん自身の努力不足とは言っても完全に困窮してしまえば生きづらさを感じることだろう。そうならないためにも自律した生活を送っていかなければならない。また人々の痛みに共感して素敵な世界の一員となるべく感性を磨いていく必要がある。さもなければハラスメントの加害者として批判され肩身の狭い思いをすることになるのは目に見えているからだ。

 

 ところでフリーターの僕も新年度から住民税というものが給料から天引きされるみたいです。はあ?!!!!!!!!!!!!!うっせえわ!!!!!!!!!!!!!!!!!!生きてるだけで罰金かよ!!!!!!!!!!!!!!!!!死ねよクソ社会!!!!!!ファック!!!!!!死ね死ね死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!殺す殺す殺す殺す!!!!!!!!!!!!!!!コロス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ボケ

男子トイレのすべて


 幼い頃の体験がその後の人生のすべてを大きく変えてしまうということがある。
 外で身体を動かすよりも家の中でゲームをすることが好きだった少年は、ある日、父親に連れられて野球場に行くことになった。スポーツに興味のなかった彼にとって、それはとても退屈な時間になるはずであった。しかし壮大なスタジアムの光景とそれを埋め尽くすほどの人波が彼の興味を惹いた。周囲の気温が変わってしまうほどの熱気とお腹の底に響くような爆発的な歓声が彼を興奮させていた。
 自分もいずれあの場所に立ってみたい。野球のルールなどほとんどわからない。バットを握ったことも、グラブをはめたこともなかった。それでもはじめて体験する夢のような時間が、無垢な少年に大志抱かせるのは至極当然であると思えた。
 最終回にホームチームの逆転勝利をもたらしたホームラン。夜空に綺麗な放物線を描いた白球がフェンスを超えて彼の父親のグラブに収まった時、いよいよその運命は決定づけられた。その一日が彼の人生を大きく変えたのだ。自らの人生を振り返る時、彼はいつだってその日のことを思い出す。あの偶然がなければ僕の人生はきっと大きく違ったものになっていただろうと。

 

 さて、我々の幼少期を支配していたものとは何だろうか。もちろん学校における腹痛への恐怖である。人間の負の感情により生まれ、そしてその感情を増幅させる、この実体なき悪魔はウンコマンという形で肉体を獲得し我々の前に姿を現した。ウンコマンについては以前に言及しているのでそちらを参照いただくことにしよう。

かつて僕たちはウンコマンだった - うんざりブログ

産み落とされたウンコマン - うんざりブログ

ウンコマンとの未来(完) - うんざりブログ
 小学生という幼い時分に萌芽した男子トイレへの恐怖は少しずつ成長し、やがて中学生の頃になると不良の溜まり場という形で顕現することになる。校舎内で最も仄暗い空気のこの場所が、恐怖される存在でありたいと願う者たちを引き寄せることにいったい何の疑問があるだろうか。
 以後、男子トイレは通常の機能をほとんど失ってしまうことになる。それまでもトイレの利用には常に後ろめたい感情が付き纏っていた。出入りする瞬間をなるべく他人に見られないようにする必要があった。実際には誰もが利用していることは理解していても、軽薄にもそれを公言したり指摘したりしないのが、無軌道に生きていた在りし日の我々にとって唯一の紳士的な嗜みでもあった。しかし今度はマナーやモラルなどでは許されない。完全にイリーガルな存在へと変わっていくことになる。
 暴力、違法な薬物の取引、発展場、盗撮、男子トイレといえば完全にアンダーグラウンドなイメージがついてしまった。そうなれば無秩序を求める者たちがますます男子トイレに集うことになる。これはいわば負のバンドワゴン効果、治安の低下がさらなる治安の低下を招く最悪のスパイラルの誕生というわけである。
 鶏が先か、卵が先か、いやはじまりは常に過去の学校の排便における屈辱にあったはずだ。
 夜の公園の公衆トイレが放つ異様な雰囲気。迂闊に近づいてはいけない場所だと全身の感覚が警鐘を鳴らす。入口を照らすライトの周りを数匹の蛾がくるくると飛んでいる。それは蠅が集る生物の死体を見た時と同等の生理的嫌悪感を催させた。

 

 いよいよ本題だ。男子トイレという場所は世間一般的に認識されているより実はずっと危ない場所なのだ。なにをこれまでにも十分に説明してきたではないかと思われたのであれば、残念ながらそれは些かの早とちりというものである。これまで説明してきたことはいわば『表』の悪さでその裏ではおそらく普通の生活を送る人達には想像すらしないであろう事態が起こっている。
 男尊女卑の社会だと糾弾されるようになって久しいが、少なくともトイレの使用の観点から言えば男性の方がよっぽど厳しい立場に置かれているは間違いない。その事実を知らない女性の皆様に男子トイレの現状のすべてを伝えたい。そしてこの記事が男女の相互理解の促進に少しでも寄与できれば幸いなことこの上ない。それはこのブログの最終的な目標でもある。

 

 扉の閉められた大便器の個室からは不穏な物音が響いている。獣が相手を威嚇をしているようなゴロゴロとした低い呻き声である。それはどこか苦しそうでもあり、ただならぬ出来事の発生を予感させる。しばらくすると勢いよく水の流れる音がして、扉が開いて平凡な容姿の中年男性が現れた。まるで何事も無かったかのような素振りで洗面所へと向かう。その表情はむしろ晴れやかと言ってもいいだろう。しかし街中でこのような人物が畜生の如く咆哮している様子など目にしたことがあるだろうか。少なくとも私にはそのような経験はない。
 彼は丁寧に両手を洗うとポケットからハンカチーフを取り出して手についた水分を拭き取った。そしてこの危険な場所を立ち去るかに思えたが、なんと再び両手を蛇口の下に運び、溢れるほどいっぱいに水を受けるとそのまま口に含んだ。それから顎を上げるようにして天井を見上げると勢いよくガラガラと喉を鳴らし始めたではないか。先ほど扉の向こう側から聞こえていたのとはまた少し違った響きではあるが、負けず劣らずの不気味さと、全身が総毛立つような奇妙な不快感を有している。そうして彼は私の鼓膜を思うがままに蹂躙すると、やがて満足したように口に含んでいる液体を洗面台に吐き捨てた。唾液と混ざり合いやや粘性を持った液体はゆっくりと排水溝に流れて消えたものの、おそらく彼の口腔内に存在していたと思われる食事の細かな残滓が白いボウルの上にその姿を見せていた。まるで彼自身の存在を主張するように。それは一つのマーキング行為と言えるのかもしれない。

 

 等間隔に並ぶ小便器。その足元を見てみれば床面が濡れているのがわかる。通常の使用法であればこうした状態にはなり得ない。小便器を跨ぐようにして立ち、ほとんど便器と密着しながら行為をすれば、尿は壁面にぶつかり静かに流れ落ちて排水されていくはずなのである。つまり床面が濡れているということは小便器から離れて排尿を行っているということの証左なのである。しかし床が濡れるということは自分自身の靴に、跳ね返りの尿や勢い足らずで便器に到達しなかった尿が付着している可能性が極めて高い。これが歓迎すべき事態でないことはもはや説明の必要もないだろう。
 さらに小便器と距離を取るとことによって別の問題も発生する。小便器と下半身にスペースがあるということは陰茎を完全に露出している状態でもある。それは生物としてあまりに無防備すぎるではないか。自らの急所を不特定多数に晒すなど本来有り得てはならない。
 ただでさえ男子トイレという環境においては、他人の性器を観察しようとする者が一定数存在しているのだ。横並びで排尿をしながらじっと隣の下半身を見つめる老人は珍しくない。しかしながら彼らの瞳はどこか虚ろでその行為に特別な意図は感じられない。たとえば自分のイチモツとの比較をしてマウントをとるとか、視姦することによって性的興奮を得ようなどという明白な目的は無いように思える。
 ところで男性は自身の性器に対して特別な感情を抱いているというのはよく知られた話である。自身の分身であるように扱ったり、長年連れ添った相棒(まさに相“棒”などという下ネタではない)と認識していたり、多くの男性はまるで我が子のように慈しみ名前までつけているという。そういえば男性器はよく『息子』と別称されている。
 それを鑑みれば老人が他人の男根を凝望するのは『私はお前の家族のことを知っているぞ』という無言の圧力というようには考えられないだろうか。本人に対してどれだけ凄惨な拷問を加えても全く口を割らなかった者が、自身と親しい人間への危害を匂わされた途端に簡単に諦めることは珍しくないという。これはとあるマフィアの常套手段の一つでもある。一見すると何の変哲もない男子トイレの内部では日常的に一触即発の駆け引きが行われている。

 

 それでは一体なぜそのような危険を冒してまで床面に小便を垂らすのだろうか。これについてある程度は単純な理由で説明がつく。それは既に床が他人の排尿によって汚れている場合だ。便器に近づきたくても床が汚れていれば離れて行為する他にない。もちろん自分の靴を汚す覚悟で前に進むという選択肢もあるが、それほどの勇気を求めるのはあまりにも酷というものだろう。たとえその結果さらに床を汚すことになったとしても、どうせ靴が汚れるなら他人のものより自分の小便で汚したほうがいくらかマシであるのは間違いない。こうして一度広がった床面の汚れはそれ自身をきっかけとしてどんどんと拡大していく。
 しかしこれでは発端の汚れがどのようにして生まれたのかそれを説明することはできない。いや通常考えられるすべての理由でも不可能なのだ。なぜならば男子トイレの小便器の床の汚れ、その最初の一滴は人為的に齎された物であるからだ。床面に広がる尿による汚れの跡。よく観察してみるとそれは無秩序に成立しているわけではない。一定の法則に従った幾何学的な紋様を描いている。おそらく原初の汚れは、それが後に与える影響まで完璧に計算し尽くされた上でこの世に産み落とされた。

 床面に描かれた幾何学模様。そこにポタリと垂れる人間の体液。典型的な儀式行為を連想せずにはいられない。そう『原初』の人物は、この場所に集まる人々を利用して複雑な魔法陣を創り、さらに彼らの尿を代償にこの世界に悪魔を呼び出そうという恐ろしい計画を実行したのである。その悪魔とは、おそらくウンコマンに違いないだろう。
 すべては奴の掌の上での出来事だったのだ。我々が生まれてから死ぬまで、行われるすべての排泄行為はすべてこの悪魔の支配下にあるのだ。かつては悪魔の存在に怯え、やがて悪魔を召喚する儀式の生贄とされる。我々は知らぬ間にこの生と死の循環、トイレのウロボロスに取り込まれている。
 しかしながら人間もありとあらゆる生物の一部であり、食物連鎖に代表されるようにその生命は循環している。もしかしたらこれは普遍的な自然の摂理なのかもしれない。植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる。そして我々がその頂点として君臨している。我々が摂取した食物の残骸、排泄物を微小な細菌などが分解して再利用される。
 生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。排泄する。分解する。食べる。食べる。排泄する。生産する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。
 こうして人間は単独での循環を獲得してその繁栄は永遠のものとなった。