うんざりブログ

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今年の秋は短かった

 

 大学を卒業してからのはじめの一年が終わる。今までは学生という身分に帰属意識を持っていればよかった。実際にそれだけが僕の全てだった。唯一の拠り所がなくなってはじめての一年だ。このあいだ僕は何者でもなかった。

 ところで、今年の秋は短かった。

 人類の活動による環境破壊で、大量に排出された二酸化炭素によって、猛暑と厳冬が年々長くなって、などとそんな話ではない。

 今年もしっかり秋の訪れはあったはずなのに、僕の五感はそれを感じることなく通り過ぎてしまった。これはちょっとおかしな事態だった。

 三年に渡る受験生活を終えてから僕は秋の匂いを気にするようになった。秋夜の肌寒さと静けさに響く自然の音は、勉強不足の受験生にたしかな焦燥感をもたらした。蛍雪之功などと言ってはあまりに誇大な表現だが、長くなる夜に合わせて、机に備え付けのライトの点灯時間も増えていった。

 大学に入学してからもその季節を迎えるとなんとなくその時のことを思い出した。かすかに抱いていたような大志が怠けている僕の尻を蹴り飛ばすのだ。わずかに痛みを覚えて、それが心にまで伝播する。ただ心は揺れることなく、痛むだけ痛んで、やがて冬が来る頃にはそれすら忘れていった。

 でもたしかに僕はその痛みを毎年感じていたのだ。それがなにやら自分の人格の中核を築いていたような気がしないでもない。秋の空気の冷たさを感じ取り、それを心をくすぐるような些細な刺激、平たく言えば切ないという感情なのだろうか、として受けとる、それら二つの受容体こそが僕そのものであったのかもしれない。

  だからちょっとおかしな事態なのだ。

 思えば僕には常に未来があった。モラトリアムとはそういう時期ではないか。結論を後回しにしているのだからそこにはまだ想像の余地がある。物語が終わるまでは巻き返す機会は残されている。死体だと思われていた男が、実は一番近くで観戦していた支配者だということもありえなくはないのだ。

 いずれ挽回できる、僕には無根拠な自信だけがあった。自分が特別優れた人間だという幻想は第二次性徴とともに捨てることができた。それでも、なんとなく人並みの人生を送ることくらいはできるのではないかという、態度は持ち続けている。正直に言えば、いま現在でもそうだ。高校を卒業して僕の人生はようやくはじまった。あれからもう十年近くが経った。若い、と言われる時間の終わりはもうそこまで来ているのかもしれない。それでも、まだ完全に何かを諦めるには切迫感が足りない。

 このまま永遠に何かを期待し続けていられるだろうか。物語の完全な結末まではわからなくても、話の大筋は見えてきたのかもしれない。この一年間それを感じていた。かつて無限のように広がっていた道はだんだんとその可能性を狭めていた。漠然とした余裕が薄まっている。

 僕に残されているのは消極的で、望まない選択ばかりで、そのためには僕の尻に火がつく必要などないのかもしれない。いままでの選択は暗闇の中にいるようでその実、外の世界の光や空気が漏れ出ているのを感じられた。でもいまは何の道しるべもない。僕にできるのはこのまま、本当に存在するかもわからない先の出口を目指すか、入り口に引き返して徒労に終わった死んだ時間を数えて後悔するか、だけだ。

 明日から新年度を迎える。僕の暮らしてきた地域では冬のあいだほとんど空が晴れることがない。春を迎えると久しぶりに青い空を拝むことができる。暖かくなった穏やかな空気の中で、分厚い雲に遮られることのない太陽の光を浴びて、長期休業明けに大学に向かう。それが好きだった。ここからまた新しい一歩を踏み出せるような気がした。

 どうやら今年はそうではないようだ。浪費していく季節の一つでしかない。これは、青い春だ。十代だった頃、僕は本当に生きていたのか疑問に思う。誰かに恋をすることも、人生に思い悩むこともなかった。それがここにきてこれほど自分自身と向き合っているのだ。青春の大遅刻だ。

 そういえば僕の人生はいつも周回遅れだ。まずは大学入学からケチがついた。

 愚かな大学生が学業を疎かにしてアルバイトに励んでいたのを冷ややかな目で見ていた。数年後、もっと愚かな僕は週4でアルバイトをしている。