うんざりブログ

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かつて僕たちはウンコマンだった

 

 ――部屋の外からワイワイと楽しそうな声が聞こえてきた。暑さも、寒さも、日光も、何も防いではくれないような薄手のカーテンを開けると、家の目の前の道路を、学校帰りの子供たちが列をなして歩いている。密集する建物の間を縫うようにして西日が差し込み、暗い地面にわずかばかりの日向を落としていた。そこを駆け抜けていく彼らの顔はいっそうキラキラと輝いて見える。穏やかな昼下がりだった。前を走る友達を必死で追いかける小さな身体の男の子。彼が一歩踏み出すたびに黄色の帽子が左右に大きく揺れた。僕の頭の中では、やがて朽ちるのを待つだけだった、埃を被った古い記憶が、急速に鮮やかな色彩を取り戻していた。

 当時の僕たちはたしかにこの世界の主人公だった。挫折も絶望も知らないままでいたから無限に広がる未来を信じて疑わなかった。しかしそんな無敵にも思える僕たちでも恐れていたものがたった三つだけあった。それは、給食に出てくるグリンピースと、終業式の日に持ち帰らなくてはいけない大量の荷物と、それから学校で不意に催す便意だった。

 

 小学校の男子トイレとは、いかに遠い距離であっても便器の外に零すことなく排尿を完遂できるかを競う遊戯施設である。そのため何のために存在しているかまったく不明であるはずの個室の扉が閉められていることなどあってはならない。もしも扉がそのような状態になっている場合、中では重大な犯罪行為が行われているに違いない。そのため児童たちは扉を叩いて、野次を飛ばし、扉の向こう身を隠す卑怯者を煽り立てる。隣の部屋の便器に上り、仕切りの上から見下ろすということも珍しくない。

 学校のトイレでウンコをした者は、ほとんど犯罪者と同様に扱われることになる。そして不浄なる存在として一時的にカーストの最底辺に追いやられることになる。さらに『ウンコマン』の汚名――この場合はまさにそのままの意味である!――を拝することになった。奇妙なことにこの事象は年代や場所を問わず、現代の日本全国において普遍的に確認されている。つまり『ウンコマン』は日本人の心に眠る集合的無意識の顕在化と言えるのである。

 やがて成長を重ねた我々の生活から『ウンコマン』はその姿を消していく。しかしながら損益を計算することなく活動していた少年期の時分にこそ、純粋な動物としての『人間』の姿が現れていたのではないか。彼らの行動原理は非常に原始的な欲求に基づいていたはずなのだ。そうであればこれほどまでに校舎内での排便が忌避されるにもきっと明確な理由が存在する。

 学校内での排泄とはつまり自分たちの領域に生活の痕跡を残すということである。我々は今でこそコンクリートに囲まれて暮らし、安全な生活を大きく脅かす外敵など存在していないが、かつては自然の中で他の多くの動物たちと生きていた。『原始的』な動物であった我々にとってそこは非常に厳しい環境であり、常に多くの危険があったに違いない。排泄物の強烈な臭気によって自分たちの居場所が知られてしまうことは、時に命取りとなったことだろう。(もちろんその頃にはボタン一つで水を流して排泄物を葬ることなどできなかった)

 我々のよく知る『文明』が築かれたのは、この惑星の歩みを考えれば、それほど長くないホモ・サピエンスの歴史の中でも至極最近のことである。つまりそれまでの間ずっと我々の祖先は排泄行為に伴う危険と隣り合わせだったということである。それでは排泄行為に対して敏感な遺伝子が生き残り、そうでない者が淘汰されてきたことに何の疑問があるだろうか!異常にも思える男子小学生の学校内での排便への執着は、この惑星での生存競争を勝ち抜くために受け継がれ続けた、我らが種の血脈(けちみゃく)なのだ。

 大人になればこのような習性はだんだんと薄れていくかもしれない。しかし忘れてはならない。現代の世の中を支配する社会規範など、我々の持つ本能に比べればはるかに短い歴史しか持たないことを。街に出れば多くの人を目にする。その誰もが『社会性』の名の下に隷属するフリをしているが、心には決して抑えることのできない怪物を抱えているのだ。彼らは時々その扉を叩いて、僕たちを衝動的に突き動かす。それは奇しくも、トイレの個室の扉の前に立つ男子児童の姿に似ている。

 

 ーー我々は人間だ。この惑星における生存競争に勝利しあらゆる種の頂点に君臨している。かつてはその苛烈な混沌の一部に甘んじていたが、いまは一方的に支配して駆逐、蹂躙することができる。もはや恐れるものはなにもないのだ。もうウンコマンは必要ない。それは過去に怯える醜い幻想の産物だったのだ。いま我々は呪縛から解き放たれて未来へと前進する。

 かつて僕たちはウンコマンだった。