うんざりブログ

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男子トイレのすべて


 幼い頃の体験がその後の人生のすべてを大きく変えてしまうということがある。
 外で身体を動かすよりも家の中でゲームをすることが好きだった少年は、ある日、父親に連れられて野球場に行くことになった。スポーツに興味のなかった彼にとって、それはとても退屈な時間になるはずであった。しかし壮大なスタジアムの光景とそれを埋め尽くすほどの人波が彼の興味を惹いた。周囲の気温が変わってしまうほどの熱気とお腹の底に響くような爆発的な歓声が彼を興奮させていた。
 自分もいずれあの場所に立ってみたい。野球のルールなどほとんどわからない。バットを握ったことも、グラブをはめたこともなかった。それでもはじめて体験する夢のような時間が、無垢な少年に大志抱かせるのは至極当然であると思えた。
 最終回にホームチームの逆転勝利をもたらしたホームラン。夜空に綺麗な放物線を描いた白球がフェンスを超えて彼の父親のグラブに収まった時、いよいよその運命は決定づけられた。その一日が彼の人生を大きく変えたのだ。自らの人生を振り返る時、彼はいつだってその日のことを思い出す。あの偶然がなければ僕の人生はきっと大きく違ったものになっていただろうと。

 

 さて、我々の幼少期を支配していたものとは何だろうか。もちろん学校における腹痛への恐怖である。人間の負の感情により生まれ、そしてその感情を増幅させる、この実体なき悪魔はウンコマンという形で肉体を獲得し我々の前に姿を現した。ウンコマンについては以前に言及しているのでそちらを参照いただくことにしよう。

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ウンコマンとの未来(完) - うんざりブログ
 小学生という幼い時分に萌芽した男子トイレへの恐怖は少しずつ成長し、やがて中学生の頃になると不良の溜まり場という形で顕現することになる。校舎内で最も仄暗い空気のこの場所が、恐怖される存在でありたいと願う者たちを引き寄せることにいったい何の疑問があるだろうか。
 以後、男子トイレは通常の機能をほとんど失ってしまうことになる。それまでもトイレの利用には常に後ろめたい感情が付き纏っていた。出入りする瞬間をなるべく他人に見られないようにする必要があった。実際には誰もが利用していることは理解していても、軽薄にもそれを公言したり指摘したりしないのが、無軌道に生きていた在りし日の我々にとって唯一の紳士的な嗜みでもあった。しかし今度はマナーやモラルなどでは許されない。完全にイリーガルな存在へと変わっていくことになる。
 暴力、違法な薬物の取引、発展場、盗撮、男子トイレといえば完全にアンダーグラウンドなイメージがついてしまった。そうなれば無秩序を求める者たちがますます男子トイレに集うことになる。これはいわば負のバンドワゴン効果、治安の低下がさらなる治安の低下を招く最悪のスパイラルの誕生というわけである。
 鶏が先か、卵が先か、いやはじまりは常に過去の学校の排便における屈辱にあったはずだ。
 夜の公園の公衆トイレが放つ異様な雰囲気。迂闊に近づいてはいけない場所だと全身の感覚が警鐘を鳴らす。入口を照らすライトの周りを数匹の蛾がくるくると飛んでいる。それは蠅が集る生物の死体を見た時と同等の生理的嫌悪感を催させた。

 

 いよいよ本題だ。男子トイレという場所は世間一般的に認識されているより実はずっと危ない場所なのだ。なにをこれまでにも十分に説明してきたではないかと思われたのであれば、残念ながらそれは些かの早とちりというものである。これまで説明してきたことはいわば『表』の悪さでその裏ではおそらく普通の生活を送る人達には想像すらしないであろう事態が起こっている。
 男尊女卑の社会だと糾弾されるようになって久しいが、少なくともトイレの使用の観点から言えば男性の方がよっぽど厳しい立場に置かれているは間違いない。その事実を知らない女性の皆様に男子トイレの現状のすべてを伝えたい。そしてこの記事が男女の相互理解の促進に少しでも寄与できれば幸いなことこの上ない。それはこのブログの最終的な目標でもある。

 

 扉の閉められた大便器の個室からは不穏な物音が響いている。獣が相手を威嚇をしているようなゴロゴロとした低い呻き声である。それはどこか苦しそうでもあり、ただならぬ出来事の発生を予感させる。しばらくすると勢いよく水の流れる音がして、扉が開いて平凡な容姿の中年男性が現れた。まるで何事も無かったかのような素振りで洗面所へと向かう。その表情はむしろ晴れやかと言ってもいいだろう。しかし街中でこのような人物が畜生の如く咆哮している様子など目にしたことがあるだろうか。少なくとも私にはそのような経験はない。
 彼は丁寧に両手を洗うとポケットからハンカチーフを取り出して手についた水分を拭き取った。そしてこの危険な場所を立ち去るかに思えたが、なんと再び両手を蛇口の下に運び、溢れるほどいっぱいに水を受けるとそのまま口に含んだ。それから顎を上げるようにして天井を見上げると勢いよくガラガラと喉を鳴らし始めたではないか。先ほど扉の向こう側から聞こえていたのとはまた少し違った響きではあるが、負けず劣らずの不気味さと、全身が総毛立つような奇妙な不快感を有している。そうして彼は私の鼓膜を思うがままに蹂躙すると、やがて満足したように口に含んでいる液体を洗面台に吐き捨てた。唾液と混ざり合いやや粘性を持った液体はゆっくりと排水溝に流れて消えたものの、おそらく彼の口腔内に存在していたと思われる食事の細かな残滓が白いボウルの上にその姿を見せていた。まるで彼自身の存在を主張するように。それは一つのマーキング行為と言えるのかもしれない。

 

 等間隔に並ぶ小便器。その足元を見てみれば床面が濡れているのがわかる。通常の使用法であればこうした状態にはなり得ない。小便器を跨ぐようにして立ち、ほとんど便器と密着しながら行為をすれば、尿は壁面にぶつかり静かに流れ落ちて排水されていくはずなのである。つまり床面が濡れているということは小便器から離れて排尿を行っているということの証左なのである。しかし床が濡れるということは自分自身の靴に、跳ね返りの尿や勢い足らずで便器に到達しなかった尿が付着している可能性が極めて高い。これが歓迎すべき事態でないことはもはや説明の必要もないだろう。
 さらに小便器と距離を取るとことによって別の問題も発生する。小便器と下半身にスペースがあるということは陰茎を完全に露出している状態でもある。それは生物としてあまりに無防備すぎるではないか。自らの急所を不特定多数に晒すなど本来有り得てはならない。
 ただでさえ男子トイレという環境においては、他人の性器を観察しようとする者が一定数存在しているのだ。横並びで排尿をしながらじっと隣の下半身を見つめる老人は珍しくない。しかしながら彼らの瞳はどこか虚ろでその行為に特別な意図は感じられない。たとえば自分のイチモツとの比較をしてマウントをとるとか、視姦することによって性的興奮を得ようなどという明白な目的は無いように思える。
 ところで男性は自身の性器に対して特別な感情を抱いているというのはよく知られた話である。自身の分身であるように扱ったり、長年連れ添った相棒(まさに相“棒”などという下ネタではない)と認識していたり、多くの男性はまるで我が子のように慈しみ名前までつけているという。そういえば男性器はよく『息子』と別称されている。
 それを鑑みれば老人が他人の男根を凝望するのは『私はお前の家族のことを知っているぞ』という無言の圧力というようには考えられないだろうか。本人に対してどれだけ凄惨な拷問を加えても全く口を割らなかった者が、自身と親しい人間への危害を匂わされた途端に簡単に諦めることは珍しくないという。これはとあるマフィアの常套手段の一つでもある。一見すると何の変哲もない男子トイレの内部では日常的に一触即発の駆け引きが行われている。

 

 それでは一体なぜそのような危険を冒してまで床面に小便を垂らすのだろうか。これについてある程度は単純な理由で説明がつく。それは既に床が他人の排尿によって汚れている場合だ。便器に近づきたくても床が汚れていれば離れて行為する他にない。もちろん自分の靴を汚す覚悟で前に進むという選択肢もあるが、それほどの勇気を求めるのはあまりにも酷というものだろう。たとえその結果さらに床を汚すことになったとしても、どうせ靴が汚れるなら他人のものより自分の小便で汚したほうがいくらかマシであるのは間違いない。こうして一度広がった床面の汚れはそれ自身をきっかけとしてどんどんと拡大していく。
 しかしこれでは発端の汚れがどのようにして生まれたのかそれを説明することはできない。いや通常考えられるすべての理由でも不可能なのだ。なぜならば男子トイレの小便器の床の汚れ、その最初の一滴は人為的に齎された物であるからだ。床面に広がる尿による汚れの跡。よく観察してみるとそれは無秩序に成立しているわけではない。一定の法則に従った幾何学的な紋様を描いている。おそらく原初の汚れは、それが後に与える影響まで完璧に計算し尽くされた上でこの世に産み落とされた。

 床面に描かれた幾何学模様。そこにポタリと垂れる人間の体液。典型的な儀式行為を連想せずにはいられない。そう『原初』の人物は、この場所に集まる人々を利用して複雑な魔法陣を創り、さらに彼らの尿を代償にこの世界に悪魔を呼び出そうという恐ろしい計画を実行したのである。その悪魔とは、おそらくウンコマンに違いないだろう。
 すべては奴の掌の上での出来事だったのだ。我々が生まれてから死ぬまで、行われるすべての排泄行為はすべてこの悪魔の支配下にあるのだ。かつては悪魔の存在に怯え、やがて悪魔を召喚する儀式の生贄とされる。我々は知らぬ間にこの生と死の循環、トイレのウロボロスに取り込まれている。
 しかしながら人間もありとあらゆる生物の一部であり、食物連鎖に代表されるようにその生命は循環している。もしかしたらこれは普遍的な自然の摂理なのかもしれない。植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる。そして我々がその頂点として君臨している。我々が摂取した食物の残骸、排泄物を微小な細菌などが分解して再利用される。
 生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。排泄する。分解する。食べる。食べる。排泄する。生産する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。
 こうして人間は単独での循環を獲得してその繁栄は永遠のものとなった。