うんざりブログ

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ウンコマンとの未来(完)

 

 僕たちは過去への恐怖を克服することができず排便行為を忌避した。そして現代の魔女狩りとばかりに迫害を繰り返した。駆逐すべき悪魔は自分自身が生み出したものとは知らずに。在りし日より幾千もの月日が流れ、もはや老いた母親を山に捨てに行く必要はなくなった。しかし未だに僕たちは飢えを恐れ続けているのだ。石を投げる僕たちが鏡を覗けば、そこにはきっと恐れ、憎んだ、相手が立っているに違いない。

 しかし少しずつでも僕たちは、少なくとも僕は、そのことに気がつくことができた。いずれはこの社会も、たとえその歩みは遅くても、変わっていくことだろう。あらゆる差別や偏見にまぎれてウンコマンも過去の過ちとして記録されていく。やがてはそれすら失われて『ウンコマン』という概念そのものがすっかり綺麗に消え去ってしまう。そんな世界がきっとくる。ただ残念なことに遠い未来に咲く希望の話だ。理想に身を捧げることもできるけれど、正直者は報われるなどと夢物語を信じるにはあまりに年齢をとりすぎた。僕たちはのこの世界で、石をぶつけられないように生きていくのだ。

 

 ここで『男性用トイレにおけるジレンマ(便意の解消と大便器の使用の回避)』の解決に向けての近年の歩みを紹介しておこう。現在に至るまで侃諤の議論がなされてきたが未だ完全な解決には至っていない。なおジレンマとは題されているが、実際には便意の解消を優先せざるを得ず、大便器の使用の回避が併存できないか探る試みである。さらに言えば、正確には、大便器の使用が問題なのではなく使用に伴う羞恥が問題であった。これは小と大の両機能が一体となっている女性用のトイレではジレンマが生じていないことからも明らかだった。こうして命題の誤謬を緻密に訂正するところからはじまり後の議論へと広がっていく。

 まず起こった考えは『大便器の使用と羞恥の回避』がともに成立する状況での排便というものだった。自宅での排便がこれに該当する。公共のトイレでのウンコを制限するという単純なものだったが実際これだけですべてを解決することができた。あっという間に大多数の支持を得て議論の本流となったが、外出先での突然の腹痛という致命的な欠陥が判明してからはだんだんとその勢いを失っていった。十分な予防により回避できるという反論もあったが、人間の生理的な現象には完全には抗えないという再反論には誰しもが沈黙せざるを得なかったのである。

 こうして『孤独』派は影響力を失っていったが、ある一人の学者が新たな意見を打ち出した。それは自宅でのトイレ環境を外でも再現できれば良いのではないかというものであった。つまり誰もいないタイミングを狙ってトイレに入るというものである。圧倒的な賛同を得ていた『孤独』派の没落以後しばらく議論そのものが停滞していた状況において、これは大きな火種となり活発な論争を生んだ。しかし最終的には、理想のトイレ状況の成立は完全に他人の動向に依存するものであるとしてその不確実性が指摘されることとなった。もしも理想状況でトイレに入ることができたとしても、途中で誰かが来てしまえば再び理想状況を得るまで動けなくなるという点も問題だった。また個室の中から伺える外の情報は限定的であり、そもそも理想状況の成立は決して確信できない、つまり我々は二度と個室トイレの外に出ることができなくなるというシミュレーション結果も提示された。さしもの『孤独』派も個室トイレでの永遠なる孤独までは望んでおらず、いよいよその勢いは失われることとなったのである。その後の彼らはわずかな人員で活動を続けているものの現在までに大きな成果をあげることはできずにその名前はすでに過去のものとなっている。

 こうした失敗の歴史により人々の間では発想の転換が必要との認識が高まっていた。個室トイレの使用を悟られないようにする、という方策から、堂々と個室トイレを利用した上で羞恥を回避するというものへと移行していったのである。その代表的な例を挙げていこう。

 一つは『便所飯』である。その名の通り、個室トイレで食事をするというものである。正確には食事のフリなのだが、とにかく周囲の人間にそう思わせることが肝要であった。便意を感じた時に、お弁当などを持参することにより、堂々と個室トイレを利用できるというアイデアだった。便所飯とはもともと、食事時に行き場のない者が人目を避けるために個室トイレを利用することを指す言葉であった。当時、このような振る舞いが流行の兆しを見せており、その中で『便所飯』の発想を得たという。食事が便所を利用するのであれば、便所も食事を利用すればいいという考えは、地球中心から太陽中心へというかつての天文学における転回と同じだけの衝撃を与えることとなった。しかしこの考えもまた完全には成功しなかった。トイレの使用回数=食事の回数という印象を与えることとなり「あれだけ食事をしているのであればさぞたくさんウンコをしているに違いない」と却ってウンコマン化を促進してしまったのである。

 もう一つは『大小便器一体化』である。これはつまり大小便器で区別のない女性用トイレの模様を男性用トイレにおいて再現しようという試みであった。常に大便器のみを使い続けることで周囲からは小なのか大なのか判別ができなくなるというわけである。このアイデアはこれまでの議論を根本から覆すこととなった!この革新的な考えが何より大きな貢献を果たしたのは、人々と便器の関係を再構築したことにある。それまで人々は大便器を恐怖の対象と捉えて忌避すべきものとして扱ってきた。しかし大便器の積極的な使用が求められたことにより、人々は大便器の本質へと触れることとなったのだ。温水便座や音姫など、大便器には人々の安寧な生活を維持するための数多の機能が備わっていた。彼らはそれにようやく気がつき、ただひたすらに厳しく試練を与えるだけの存在ではなく、自分たちの生活を優しく見守っている存在でもあると悟った。こうして大便器は畏怖すべきものから崇拝の対象へと変わっていった。これは我が国における信仰の在り方とよく似ている。

 現在ではこの方法が最も多くの支持を得ている。しかしいままでの歴史と同様に、日々その在り方は見直されていくことだろう。最近でも主流に対するアンチテーゼとでも言うべく『小大便器一体化』という考えが発表された。大便器ではなく小便器で大小便を済ませようというわけである。これはウンコマンを神格化する一派によって主張され、界隈でも大きな波紋を呼んだ。 以下は彼らの声明の一部である。

「排便を公開することによって、排便への羞恥は薄れていく。隠匿などするから背徳を生むのだ。そもそも排便は自然的行為であり我々は何も間違ってはいない。それなのにどうして逃げ隠れする必要があるのか。いまこそ反逆の狼煙をあげる時なのだ」

 決して少なくない人数がこの意見に賛同したが、非常に過激で危険な思想であるとして結局は採用を見送られた。しかし若者世代を中心としてインターネットなどでいまだに熱狂的な人気を誇っている。リモート派の台頭や、伝統的なオムツ派の復権など、時代はまだまだ大きく動きそうである。

 

 これまで数回にわたってウンコマンの成立から現代での在り方などについて書いてきた。僕たちは大きな岐路に立たされており、これからの数十年は歴史的に大きな意味を持つと予想されている。人類が生み出したウンコマンという存在が、ただ大きな罪として抹消されていくのか、何か意義を持って記憶されていくのかは、僕たちひとりひとりのこれからの行動次第なのではないだろうか。

 最後に、ここまでお付き合いいただいた読者諸君に大変な謝意を示したい。君たちの支えなくしてはここまで続けることはできなかったに違いない。長々と書いてきたがこれにて拙文の結びとさせていただくとしよう。