うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

僕は時間には勃起しない

 

 祇園精舎の鐘の声が聴こえる。ゆく河の流れは絶えない。

 世の中は常に変化している。目まぐるしく動いている。僕だけを置き去りにしている。そうでもしなければ明日を迎えることができないと言わんばかりに。それこそが明日を迎えることだと言わんばかりに。

 自分だけが昨日に取り残されている、などとありふれた社会的孤立を肴に自己憐憫に浸ってみたところで、現実はずっと無慈悲で平等ではないか。万物が時間の海の上で揺さぶられているというのに、どうして惨めなお前だけがそこから逃れられようと言うのか。自らの矮小なこと、対象の巨大なこと、そのスケールのあまりの違いに不感症になっているだけじゃないのか。

 通常、僕たちにとって虫螻などはほとんど概念に過ぎず、個はおろか種であってもその性質がすっかり失われている(この場合もちろん虫螻にとっても僕たちは概念に過ぎない)。僕たちの感度は指向性を有しており、森羅万象すべてに反応して常に海綿体への血流が増加するわけではない。それは実際の陰茎と同様に、多くの場合、自らの属との類似もしくは自らとの近接さに比例して屹立する。すなわちドラゴンと車の交尾にやたらに興奮などしないように。

 ところでいまこの瞬間にも僕が立っている地表面――つまり僕は地に足の着いた立派な生活を送っている!――はすごい速さで動いている。地球の自転は一秒間におおよそ460メートルという速さで行われて、僕たちが朝のバトンリレーを行うことを可能にする。実際には、自転速度は緯度に依存しているため秒速380メートルくらいになるだろうが(僕は北緯35°付近に住んでいる)、その運動を僕は認識することができるだろうか?

 地球の自転、すなわち、空に燦然と輝く太陽の移動とは、時間の経過を示す最たるものじゃないか。自転への感度の低さ!それは僕の時間に対するインポテンツの説明として必要かつ十分なものだろう。たしかに全体の一部として遙かなる溟海を揺蕩いながらもそれに気がつくことはない。地動説を理解しない淀んだ脳漿はガリレオ以前の時代に取り残されている。色々な意味で僕の時計の針は止まってしまっている。

 積み重ねた退屈な日常の先には不可避の終焉が待っている。

 

 ジャネーの法則によれば、体感的には二十歳を過ぎたあたりで人生は折り返しを迎えているという。年月を多く体験するほど、単位年月は相対的に小さなものとなり、加速度的に時間は過ぎ去っていく。人生はどんどんと短くなっていく。

 二十歳!当時ピチピチの浪人生だった僕は家に引きこもっていた。寝る食べるという生物としての基本的な行動サイクルの合間にブログを書くなどしていた(勉強は?)。本格的に社会に出るための準備的段階、羽化の気配も見えない脆弱な蛹だった頃にはもうすでに人生の陽が沈み始めていたなんて!

 僕たちの人生が、給料日に向かう食事のようにだんだんと切り詰められていくものであるならば、それに逆らうように厳しさを課していく社会構造の方が間違っているのではないか。日々がだんだんと短くなっていくのならば、相対的な摩耗こそ許容すれど絶対的な余暇の時間こそ確保されるべきではないか。

(十歳!当時の僕には無限の可能性があった。それは単に現状の僕が先細りの道で窮境の立場にあり、足跡を遡ればいくつかの岐路を経てきたという意味ではない。たとえばそれは性的にすら未分化な状態であった。喉頭の隆起は穏やかであり発せられる声は中性的な響きを持つ、全身の筋肉は靭やかな強さを有するものの身体つきは丸く柔らかさを帯びている、体皮を覆う毛は柔らかくて薄い。なだらかな丘陵を思わせる恥骨は砂漠のように剥き出しであり、陰部は単に純粋な排泄の器官として存在しており、性的な匂いを持たない。身体的な特徴の大きな――まるで幼虫から成虫への変態のような――変化。いくらかの歳月の間に僕たちは生物学的神秘を経験している)

 十歳の僕、そして今。彼には僕の三倍の相対的時間が与えられている。健康優良児であった僕が毎日八時間の睡眠を行っていたとすれば、今の僕が同等の健康を獲得するには一日中眠りに就かなくてはならない!しかし実際には社会的活動に圧迫されるようにして僕たちは睡眠時間をはじめとする余暇の時間を失っている。……余暇?睡眠は生命の維持に必要な行為であり確保されて然るべきではないか。僕たちは文字通り仕事その他雑務に忙殺されようとしている。

 科学技術の発達は僕たちの生活を豊かにした。おじいさんは寝転がりながら暖房を作動させるためのリモコンを手に取り、おばあさんはドラム式洗濯機で衣服を綺麗にする。そのために大きな桃は誰にも発見されることなくどんぶらこと太平洋まで流れていき、鬼たちの存在はSNSであっという間に話題となり最新兵器で武装した軍隊によって駆逐されました。めでたし、めでたし。

 むかしむかし、と比較すれば生活の安全や自由は保障されているように感じる。少なくとも飢えて死ぬような心配はしなくて済んでいる。それでも僕たちは未だに人生の多くの時間を望まない仕事に費やすことを求められている。人生の真の目的たり得ない非創造的な仕事に従事することを。そこでは人々はいたずらに消耗するばかりで、自己実現などは到底果たされはしない。

 主観的な単位時間が相対的に小さくなっていくこと、これは単純に人生を長く過ごすことだけが原因ではないはずだ。幼い頃は毎日が新鮮な体験に溢れており、日々を濃密に過ごすことができる。しかし成長するにつれて無味乾燥とした繰り返しが行われることとなり、記憶に刻まれる時間が薄れていく。日常を退屈な仕事で塗り潰していくことは精神的肉体的な摩耗を引き起こすだけでなく、生命そのものを加速度的に終焉へと向かわせているのだ。

 

 ところで、ルネサンスを迎えない僕の話だ。日々を積み重ねない僕は、昨日に取り残されている僕は、人生における経験をまだたくさん残している。つまり、狂ってしまった時計の針の速度を正常に戻す余地があるということだ。たしかに僕自身もまた現在の社会構造の中心に位置する強烈な引力によって地べたを這いずる奴隷となり、かつて存在していた余暇の時間を失いつつはあるのだが。(重力と時間の関係!これは当然のことながら相対性理論によって導かれる……自明の理……)それでも自らの人生を非創造的な社会従事業務によって完全には奪われていない。まさにこのブログの記事制作という行為が自己実現の一部であり、生命の時計の針がむやみに刻まれるのを阻止している……

 そういえばこのあいだ30歳の誕生日を迎えた。大学を卒業するに際して就職をしない決断をしたとき、30歳までに成功を得ていなければ蹴飛ばした線路の上に戻ろうと考えていた。(たとえそれが以前よりも厳しい道のりであるとはわかっていても。死体を発見するような冒険が待っていると信じて。もしくは僕自身がその死体になるまで)さて、現状はどうだろうか?僕はブログを書く。ゲーム実況をする。それこそが現状の僕の人生を唯一肯定しうる材料であり、すべての過去を肯定する手段なのだ。

 今回の話題については僕の誕生日である6月の段階で記事にしようと思っていた。ところがすっかり夏の暑さも引いてしまっている!でも仕方ないじゃないか。ジャネーの法則によれば人間は歳をとるほど毎日が早く過ぎ去ってしまうらしいのだから。

愚痴を言われて勃起した

 

「新人の子どんな感じ?」

 アセスルファムカリウム。僕は彼女たちの言葉を人工甘味料のようなものだと思っている。それは不自然に甘く、嫌な後味を残す。媚びるような表情の下に潜む感情に、マスクに隠されている獲物を見つけた時の舌舐めずりに、気がつかないフリをして返事をする。これは僕なりの唯一の、そして無意味な、抵抗だった。

「うーんどうですかね」

 曇る顔に映るのは不満と不安。豪華な食事がテーブルを埋め尽くしていくのに自分の前にだけ食器が置かれていない、そんな表情だ。そこで銀のナイフとフォークを運んでやる。これも僕の仕事の一つだ。

「でもまあちょっとやりづらいですね」

「やっぱり?なんかあの子ボーっとしてるわよね。こっちの話も聞いてるのかわからないし。それから……」

 “保証”を得た彼女は堰を切ったように喋りだす。これが食事であれば喉を詰まらせているに違いない勢いだ。自らの発する言葉に埋もれて窒息したという話はまだ聞いたことがない。

 彼女の内部では自己保身の電子回路がすべての処理を済ませており、この話は相手から発せられた不満に応答したという形になっているのだろう。決して積極的に攻撃するつもりなどないが僕に同調しているために批判もやむなしというなんとも都合の良い構図が描き出されている。

 僕が持つわずかな社会性が、他人に独善的な正義を与えていた。

 新たに採用されたアルバイト学生の能力や態度など僕にとってはどうでもよかった。でも誰でもそのようには考えないらしい。他者への不満や愚痴は基礎的なコミュニケーションの一つだ。

 そして僕はそれを共有する際にだけ仲間として認められている。僕は“苦情対応窓口”として存在している。ジョン・サールの提唱した“中国語の部屋”と同じ。僕に自由な意識というものは備わっていない。ただ表層的に正しい応答をする。そんな作業の繰り返しだ。

 ここでの会話は噛み続けたガムのようなものだった。同じことが何度も繰り返されてもうとっくに新鮮な風味は失われているし、おまけにヘドの匂いがする。

 

「帰り送っていこうか」

 外ではポツポツと雨が降り出していたが、曇雨天の空は明るく、本降りの気配はなかった。それに僕は傘を持っている。普段から職場に常駐させていた。

 それでも僕は彼女の車に乗る。とても疲れていた。明け方までゲームをやっていたのだ。ほとんど寝落ちるような形で、一時間ばかりの睡眠しか取らなかった。家に帰ればログイン状態のゲーム画面と、飲みかけのエナジードリンクが待っている。

 そして求められているのは正しい対応だ。彼女の提案を拒否するというのは、可愛げ、が足りていない。若年者として正しく年輩者の好意に甘えなくてはならない。

 もちろんこれは僕にとっても利点があった。自動化された応対は、僅少なリソースを消耗しない。そして適切な行動によって得られる人格的な信頼、そこから生まれる円滑な人間関係は、おおよそ覆すことのできない社会的弱者の地位を容認してもらうために必要だった。

 社会的な活動は“僕”がこの世界に存在するために支払う対価だ。それは生命活動の維持に睡眠が必要なのとちょうど同じようなもので、眠っているときには夢を見るように、一日のうちのいくらかの時間を社会という仮想的な空間で過ごすのだ。

 夢から覚めた時、真実だと思っていた世界が全くのデタラメであったことに気がつく。この場合は少し違って、世界が仮初であると知っているので、僕も仮面を被って過ごしている。社会に生きる僕と真実の僕の間には隔絶と言っていいほどの距離があって、とてもその二つを同一のものとして扱うことはできない。

 そうして今日をやり過ごしている。

「狭くてごめんね」

 彼女はそう謝ったが、車内は一般的な広さで特に窮屈さは感じなかった。彼女自身だってそう思っているはずだ。もちろんこれも基礎的なコミュニケーションの一つだ。

 ダッシュボードに置かれた芳香剤の容器からは柑橘系の香りがする。きっとこれから彼女を抱くことになるのだろう。

 

 成人した男女が閉じた空間で二人きりになる意味を知っている。社会的道徳など動物的本能の前では脆くも崩れ去ってしまうことを知っている。彼女は既婚者で、公務員の夫と大学生の息子がいる。それでも、人間の浅はかな愚かさを僕は知っていた。

 繰り返しになるけれど、僕にとってはぜんぶ仮想の出来事なのだ。たしかに厳密には地続きではあるものの、それはユーラシア大陸の端と端のようなもので、ほとんど別世界と言えるのだ。だから僕はこの不穏な事態もありのままに受け入れる。眠っているはずの主観的意識が遠くの方で気だるさを嘆いている。それだけだった。

 窓に当たる雨が、丸い水滴となって歪な線を描いていた。信号待ちの車の中は、アイドリングストップが云々もはやエンジンの音すら聴こえず、張り詰めた静寂に満ちている。食道のあたりにブロック状の氷を丸呑みにしたような違和感がつっかえていて、どうにかそれを解消したくても、唾を飲み込む音すら気取られてしまいそうな緊張があった。

 目を閉じて彼女の裸を想像する。あまり気の乗らない作業だ。

 腹部には贅肉が溜まり、細かなシワをたくさん作って割れを起こしている。それでも全身の肌は滑らかで、各部で緩やかな美しい曲線を描いている。僕だけが感じているほのかな甘い香りは、僕たちが男女としての一対だということを無慈悲に証明する。年甲斐もなく恥じらう彼女を抱き寄せて甘い言葉を囁いてみせる。若い肉体に触れた彼女は、激しく紅潮しその雄大な花弁を見事に咲かせる。

 ぷくりと膨らむ乳房は仕事終わりのタバコのように、口寂しさをちょうど埋めてくれる。そんな魅了的な丘陵の天辺、色素の濃く集まる大振りな乳頭に、僕は夢中で吸い付く。まさに乳飲み子のように目の前の欲望にどこまでも忠実であり、それ以外は些末なことなのだ。

 下半身に血液が集まっていることを感じる。自らの男性性を証明するがごとくそれを誇示する。彼女が子供のように目をキラつかせ、そして子供が決してしない表情になったことを確認すると、自分の仕事が成功したことに満足する。きっと彼女は何度も僕を求めてくるだろう。そして仕方なしにそれに応じる。関係は今日だけでは終わらない。また次回も、そしてその次も……

「この場所で大丈夫?」

 突然の声に我に返る。うっかり少しだけ眠ってしまっていたようだ。車は僕の家の前に到着していた。

「またあしたね。おつかれさま」

 僕がお礼の言葉を述べると、彼女はあっさり帰ってしまった。……どうやら面倒な事態は自ずから去っていってくれたみたいだ。

 パソコンモニターの前に座る。エナジードリンクはぬるくなっておりすっかり気が抜けて薬くさい砂糖水のようだ。夢が現実に侵食している。その事実に恐怖を覚えながら、僕はしぶしぶパンツを脱ぐ。

世界最強フリーターの俺氏ついに仕事を辞める~急に辞められるとシフトの穴埋めが大変だからとりあえず今月末までは働いてと言われてももう遅い~

 

この物語はフィクションです。実際の人物や団体などとは決して関係ありません。

 

あらすじ

 とうとう労働が面倒になったので仕事を辞めることにした。すると今まで僕をただの店員の一人にしか考えていなかった店長が慌てて「シフトのこともあるし今月末までは働いてくれないか」と言ってきたが何をいまさら、もう遅い。隠れた才能が覚醒して無双!?現実世界スローライフ開幕!

 

↓↓↓本文↓↓↓

 

「今日で辞めます」

 ついに僕は言ってやった。客のいない昼下がりのコンビニのバックヤード。新聞に目を落としていた店長が驚いた顔をする。パートのおばちゃんがホットスナック用のトングを落とす。ガシャリという甲高い金属音――もしかしたら人生というものが壊れていくとき似たような響きが聞こえるのかもしれない。

「なんだって?」

 店長は狼狽を隠すこともできないままマヌケな質問をする。シワの刻まれた額には脂っこい汗がジワリと滲んでいて、室内灯の明かりを反射しててらてらと光っている。

「ですから今日でアルバイトを辞めさせていただきます」

 僕はもういちど、さっきよりも少し丁寧に、言葉を返す。ヒロインたちの好意に気がつくことのない難聴系主人公でもあるまいに、聞き返せばお茶を濁せるとでも思ったのだろうか。

 この店の支配者たる痩身の中年男性は幽霊でも見てしまったというように呆然としている。まるで僕の口がそんな文字列を紡ぐことができるとは思わなかったというような表情だ。つまりそれほどまでに僕は軽んじられていたということになる。

「ど、どうしてそんなに急に」

「急じゃありません。以前から考えていました」

 あくまで穏やかに言葉を返す……つもりだったのだが、積み重ねた思いの重みが自然と言葉に加算されてしまう。まるで強烈なボディーブロー、言葉のウェイトに差がありすぎる。店全体の空気はどんどんと重くなり、いまやどんよりと足元に溜まっている。店長は喘ぐように口をパクパクとさせることしかできない。もはやチアノーゼ寸前。それでも僕はニコニコと笑みを崩さない。

 

 僕がこの店に勤めはじめたのは数年前のことだ。大学を卒業してから定職に就かずにフラフラとしていたのだけれど、生きていくためにはお金がいる。当然の話ではあるがこの世界では魔物を倒したり薬草を売ったりして収入を得ることはできないので、普通にアルバイトをすることにした。

 そんな時にタイミングよく店員の募集をしていたのがこの某全国チェーンのコンビニエンスストアというわけだ。家から徒歩五分という近さもあって即応募に踏み切った。まさに疾風迅雷、天下無双の早業だった。

 コンビニ店員というのはバイト中のバイトというような装いではあるものの、仕事内容はなかなかどうして大変であり、これが非正規的労働の標準だとするならばこの世界の仕組みは著しく間違っているということになる。それでも同僚たちは意外にも優しく、特におばちゃんたちは何かと気にかけてくれた。休憩中にお菓子をくれることもあった。トリックオアトリート。

 やがて僕は仕事に慣れはじめていた。当初の新鮮な体験を失い、必死に駆け回ることもなく、全てが日常となり果て退屈と惰性に浸かっていた。時計の針は急激にその速度を緩めている。

 そしてあることに気がつく。みんながなんだかよそよそしいのだ。

 決して無視をされているとか、意地悪をされているというわけではない。でも僕と同僚たちの間には確かな隔絶があるように感じた。それは分厚い壁などではない。半透明の靄の膜のようなもので少し我慢をすれば簡単に通り抜けられるようなものだ。しかし僕の足は根が張ったように動かない。

 僕たちにあるのは上辺だけの会話。気まずさというものを発生させないための緊急的な措置。近頃はすっかり暖かくなったとか、あそこの店のケーキが美味しいとか、僕は少食そうに見えるなど。期待されるだけの熱量が圧倒的に足りていない。下品なほどの空気を揺らすような腹の底からの笑いがない。

 学生、主婦、もしくは早期退職者、彼らには道理があった。二十四時間眠ることのない、ほとんどすべての欲望を満たしてくれるような、新宿という街を小さく詰め込んだような、この店で働くべき適切な道理が。僕にはなかった。若く健康で、夢を追いかけていない、成年男性が、きちんと働かないことを説明するだけの理由が。

 すなわち僕は異物だった。いつ破裂するともわからない腫れ物なのだ。留年をイジらせる空気を纏っていない同学年になった先輩と同じだった。それならば積極的に関わるべき必然性が存在するはずもない。縮まることのない距離感は敬意によって生まれるものではない。

 素性の怪しさを忘れれば、毒にも薬にもならない存在で、仕事を頼めば断らない真面目、というのが僕に対する周囲の共通の認識だった。つまり単なるバイト先の同僚として捉えるならこれほど都合のいい人間もなかなかいなかった。恋愛ならば大敗北。どこまでも利用されたあげく、優しい人で終わってしまうのがオチだ。いや仕事の場合も間違いなく負けているのだけれど。

 いつしか面倒な業務の多くは僕に回ってくるようになった。シフトに穴が出れば、僕に連絡がきた。どうせ暇なのだから、誰も口にはしないものの態度がすべて物語っていた。

 そして話は冒頭に戻る。僕は仕事を辞めた。店長は「シフトのこともあるからせめて今月末までは」などと慰留を仕掛けてきたが無視した。その優しさがもっと早く向けられていたら結果は変わっていたかもしれない。「法律では遅くても退職の三十日前までに……」などと言い訳をしていたが、法律を持ち出せば説得できると思ったのだろうか。法律的に正しいからと言って正義だと勘違いして驕り高ぶる態度にいっそう嫌気が差しただけだった。

 僕がいなくなればきっと仕事は回らなくなるだろう。でもそれはすべて自業自得というものだ。僕に多くの業務を押しつけているが故に楽をすることができていたのに誰もそれを自覚している様子はなかった。いなくなってはじめて、僕の抱えていた仕事量を認識して慌てふためけばいい。代わりなど簡単には見つからないことに愕然とすればいい。

 

 仕事を辞めてから一ヶ月ほどが経った。先日、勤めていたコンビニにお客様として凱旋した。困っている様子が見たい、戻ってきてくれと頭を下げられたい、という仄暗い感情を抱いていたことは否定しない。

 店に入るとそこにいたのは僕の代わりに入ったであろう新しい店員だった。若い男だ。近所の大学に通う学生だろうか。明るい声で挨拶をしている。店は思ったよりも、普通の様子だった。特に問題など起きてはいないようだ。

「本当に物覚えが早くて助かるわー」

 バックヤードの方から聞こえた声は、聞き覚えがあった。丸みを帯びたソバカス顔は、かつて一緒に働いていた女性の一人だった。新人バイトに向けられるその視線は、親しみのある暖かさに満ちている。

 やがて彼女は僕に気がついて言った。

「いらっしゃいませ」

 それはかつての同僚に向けられたものではなく、初対面のお客様に向けられたものだった。立ち止まった僕を見て不思議そうな表情をしている。

 逡巡。実際の時間にすればわずか数秒の間に無限の思考が行われ、そして当然のように何も考えてはいなかった。気が遠くなる感覚だけを全身に浴びて、結局何もすることはなく店を後にした。ここには僕の望むものは何一つなかった。

 アルバイトを短期間で辞めた三十路の落伍者に世間は厳しい。もうフリーターを名乗ることすら許されなくなった。無職。アルバイトすら採用されない無職。何かを取り戻すには、僕の人生はもうあまりに遅すぎた。

 異世界転生。いま目の前にはエンジンの唸りをあげて迫りくるトラックが見えている。

僕の食生活は柔らかな卵に支配されている

 

 たしかに卵は多くの料理で使われている。和食、洋食、中華――ネット検索無しですらすらと提示できるのはこのあたりが限界だ。しかしながら僕が蓄積している知識だけでは表すことのできないその他あらゆる料理ジャンルでも幅広く用いられているのではないかと思う。デザートのレシピ本を開けばそれが書かれていないページを見つけるほうが難しいかもしれない。全卵に加えて卵黄や卵白だけを要求するものまである。とんだ強欲ぶりじゃないか。

 GAFAが現代人の生活に密接に関わっていて多くの人がその影響下にあるように、僕の食生活――ありきたりな食材をゴチャ混ぜに加熱したものを献立と呼べるのであれば――それらは常に卵の入り込む余地を与えられている。日本食のほとんどが醤油とみりんと酒を合わせて味付けをするように、大抵の料理は卵でとじてしまえば美味しく食べられてしまう。

 卵の汎用性、あるいは他の食材との親和性の高さについての話。2015年のパズドラにおけるラードラのような抜群の安定感、もしくはポケモンユナイトで上レーンにルカリオがいる安心感。もはや初手7六歩と同じように定跡と言ってもいいほどだ。1993年の伊藤智仁、1995年の平井正史、古くは1961年の権藤博のようにほとんど酷使と呼べるような使われ方をしている。いや雨が降っても僕たちは卵を食べる。僕たちの食生活は卵に支えられている。

 ここまでは一般的な話だ。僕たち日本人の食生活には卵という食材が不可欠で、多くの料理に用いられている。紛れもない事実だ。しかしそれはあくまで僕たちの需要として生まれた結果であって、決して卵の浸透ありきで人為的に与えられた状況ではないはずだ。卵が先か、鶏が先か、この場合は答えははっきりとしている。食生活の支配などというおどろおどろしい言葉は適切ではない。

 ただし僕個人についてとなると話は別だ。僕の食生活は、生活は、人生は、卵に支配されている。幸福のために卵を選んでいるのか、卵を選ぶことでしか幸福を感じられないのか、僕にはわからない。本当にわからないんだ。

 

 たしか小学一年生の時、はじめて半熟の目玉焼きを食べた。眠い目を擦りながら食卓に着くと、白い平皿の上にはマーガリンのてらてらと光るトーストといつもより黄身の赤みが濃い目玉焼きがあった。

「きょうは半熟にしたから」

 母が言う。どうやら僕の家ではそれまで目玉焼きといえば固焼きしか出なかったらしい。らしい、と言うのは僕自身にもそれ以前の確かな記憶がないからだ。

 そしてこの日、めでたく物心がつく。自我の獲得はいわば精神の誕生だ。物理的な誕生からは六年ほど経過していたが、本当の意味での僕はこのとき生まれた。卵によって。つまり僕はカモノハシやハリモグラと同じ卵生の哺乳類なのだ。これが僕の人生にどれほどの影響を与えたか想像に難くないはずだ。

 半透明の薄い白身の膜から溢れるドロリとした黄身を、若干の気味の悪さを覚えながらも、それを遥かに上回る衝動に駆られて、パンとともに口に運んだ瞬間の衝撃をいまでも覚えている。ビッグバン。僕という宇宙の誕生だ。

 そして卵というものに対する認識が以後永遠に変わってしまった。僕の内部における食のパラダイムシフトの発生だった。それ以前の記憶が覚束なくてもそこで何かが変質したことを感覚的に理解している。違法な薬物を使用したことはなくても、全身の細胞一つ一つが反応する感覚を僕は知っている。

 同様の経験は、ミートソースばかり食べていたがカルボナーラにはじめてチャレンジした時、缶コーヒーしか知らなかったがはじめて豆から挽いたコーヒーを飲んだ時、チキンナゲットではじめて黄色いソースを頼んだ時などにも発生してきた。

 

 それから僕の食生活は柔らかな卵に支配されている。固焼きの目玉焼きは、それ自体には何の変化も起こっていないのに、その価値をすっかり失っていた。僕が目玉焼きを要求する時それは常に黄身が固まっていないものを指し示した。

 卵による人生観への侵食は、卵かけごはんとの邂逅によりいっそう度合いを強めていた。生卵――卵黄の濃厚な味わいと卵白のヌルヌルとした食感が料理の質を何倍にも押し上げる気がした。毎食のように食卓では卵の殻が割れる音が鳴り響いた。

 しかしながら僕の中で燃え盛る欲求は常に一定だったというわけではない。いかに強い執心であってもその初期衝動を超えることのできないピークとしてやはり緩やかにでも下降線を辿っていくものなのだ。これは見方を変えれば、柔らかな卵という概念が僕の中で完全に定着したということでもあった。一過性の激しく盛り上がるブームを超えて、安定した選択肢として与えられた。こうしてだんだんと卵への異常な愛情は薄れていく。

 それでも思い返せば僕は、いや僕だけでなく世間が、柔らかな卵に魅了されてきた。僕はそれを知っている(この頃には世間というものを冷静に見れるようになっていた)。ファミレスにいけば半熟卵の乗ったパスタやドリアを、牛丼屋にいけば生卵を、ラーメン屋にいけば黒ギャルの尻のような味の染みたゆで卵を、つい注文してしまうだろう。トロトロというオノマトペが僕たちの冷静な判断力を狂わせている。まるで巨大な権威のように他の選択肢の前に立ちはだかっている。

 

 このあいだ、濃い割下で煮込んだうどんを生卵に絡ませてみた。幼かったあの頃の衝撃をかすかに思い出した。それから毎日のようにうどんと生卵を合わせている。呪縛は簡単には消えない。

 ふと気がついた。僕は卵を食べるために、他の食材を食べているのかもしれないということを。さらに気がつく。卵はそれ自体ほとんど味がしないということを。

 

(美味しくなんてないんじゃないのか)

 

 それでも僕は逃れられない。卵を絡ませて食べるということが『美味しい』に直結しているという幻想から。柔らかな卵の支配から。

 オチはない。だって僕は自分の殻に閉じこもった、未熟で半人前の人間だから。

『自身を構成する大切な何かを失うと人は鼻水みたいな存在になっちゃうの。そう、まるで白身みたいにね』

 イタズラっぽい表情でキミが笑った。

輪廻

 

「生まれ変わっても一緒に生きようね」

 彼女はそう言って僕の手を握った。包み込むように重ねられた白い手は、磊落な彼女には似つかわしくないほど繊細だ。僕は何も言わずに彼女を抱き寄せる。息遣いには一瞬の驚きが混じりこみ、それが安らかな吐息へと変わったとき彼女はきっと目を閉じていた。

 返事をしなかったのは何も感極まったからじゃなかった。口を開いてしまえばそこから出るのは野暮な台詞に違いない。嘘はつきたくなかった。だからといって本当のことを言う必要もなかった。美しい髪を撫でる。軽くウェーブした艷やかな黒髪は腰の辺りまで伸びている。彼女は幼児のように安心して身体を預けていた。

 不必要な論理性と現実主義。でも僕にとっては生まれ変わりなど政治家の真摯な答弁と同じ、つまりは決して起こり得ないことだった。少なくとも転生した上で前世を認識できたりはしない。だから来世も彼女と一緒に生きることは不可能なのだ。不必要で野暮な思考。でも僕だってロマンチックを望まないわけじゃない。本当に言いたいのは、だからこそ限りある人生で出逢えた相手を大切にしたいってこと。二度とは訪れない瞬間を君と一緒に生きていきたいってこと。

 残念ながら口下手な僕の話術ではそんな言葉にたどり着く前に彼女を怒らせるに違いない。下唇を噛みながら潤んだ眼で睨みつけてくる、それが彼女の体内でノルアドレナリンが放出された時の表層的反応なのだ。当然のことながらそれはまだ初期の段階であり、もしも問題が即座に解決されない場合には……とにかくこうして黙っているのが一番いい。

 もちろんそんな一面も含めて彼女のすべてを愛している。僕はいま『幸福』を物理的に抱きしめている。それは柔らかな温もりを放っていた。どうだろう、少しはロマンチックな考えだろうか?

 

 もうしばらくの間に僕は死ぬだろう。病気の発覚からまだ半年、いまだに死に対する覚悟は持てていないし、人生に対する整理もついていない。思い出すのは結局、彼女のこと。

 二人の誓った永遠など所詮は数年で終わってしまった。僕らの関係の終わりの過程は複雑で一言ではとても説明しきれない。そしてそれは「すれ違い」の言葉で片付けられてしまうものでもあった。それくらいこの世の中にありふれているのだ。紆余曲折に畝る様々な感情だって結局は「冷めた」の一言に簡潔に帰着する。仕事の都合で遠距離になってやがて段々と……ほら、筋道だってしっかりとしている。納得のいく説明が十分にできてしまうのだ。

 わかっている。僕たちの関係は決して特別ではなかった。でもそれを信じることは決して悪いことでもないとも思う。僕たちの気持ちは、たとえそれが一時的なものであっても嘘ではなかったはずだから。

 あれから他の女性を好きになることはなかった。でも別に彼女に未練があるわけでもない。なんとなく機会に恵まれなかっただけ。記憶はだんだんと薄れていく。それでも、幸せだったという感情だけは忘れていない。そしてこうして時々思い出す。

 僕の行為は、消えてしまった暖炉に手をかざすようなものだ。わずかに残る惨めな暖かさを感じている。もしかしたらその温もりですら思い込みの産物なのかもしれないけれど。

 生まれ変わっても、いや生まれ変わったら、か。遠く離れた彼女は僕の現状を一切知らない。それでいいとも思う。どうか幸せに。

 窓の外では不完全な月が暗い光を放っている。

 

 喜びか、それとも悲しみか、はたまた怒りか。僕に理解できるはずがなかった。とにかく魂の昂りを感じた。僕の小さな体内で爆発し続ける鼓動を抑えておくのは到底不可能だ。声をあげた。耳をつんざくほどの大きな声。

 あらゆる刺激が僕に襲い掛かる。それはこの世界の祝福だった。すべてをひっくり返すような大波がだんだんと穏やかなものへと変わるように、やがて僕は再び夢の世界へ還っていく。次に目を覚ますときにはきっとすべてを忘れているのだろう。

 

「生まれ変わっても一緒にいたいね」

 一度入力し終えたその文章を僕は何度か見直したあげくに結局削除した。さすがにこれは恥ずかしいのではないか。履歴に並ぶたくさんの甘い言葉を前にいまさらそんなことを思う。きっと僕の顔はだらしなく弛みきっている。

 彼女とはもう付き合って三ヶ月になる。文化祭で同じ仕事を担当したのをきっかけに仲良くなり、僕の方から思いを告げた。人生ではじめての告白は今までで一番緊張する出来事だった。本当に心臓が口から飛び出るんじゃないかと思った。

 僕たちは出会うべくした出会ったように思う。まるで神様によって導かれているように、生まれる前から運命づけられた関係なのだ。それくらい僕と彼女は相性がいい。魂の次元で結びついているような感覚があった。

 少し気が早いかもしれないけれど将来のことを考える。きっと二人は結婚するに違いない。幸せで温かい家庭を……
「入るわよ」

 ノックと同時に部屋の扉が開いた。僕はまだ返事もしていない。ノックの意味がない。母だ。何度文句を言っても治す気がないのだ。

「帰ってくるまでにお風呂洗っておいてって言ったよね?」

 いきなり小言がはじまる。ここは素直に反省するほかないだろう。へたに反抗すればより本格的な説教がはじまってしまう。仁王立ちしている母は、こちらの謝罪の言葉を待つ間いつものように下唇を噛んでいる。