うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

僕は ついてゆけるだろうか

 

 インターネットを中心に日々さまざまな提言が行われ悪しき伝統や古くからの習慣が姿を変えようとしている。個人が手軽に全世界に意見を発信できる時代になり、不正な行いはたちどころに衆人環視の下へと晒されることになった。かつて法律よりも優先していた『空気』や『雰囲気』というのはある種の権力を失った。誰かの生み出した『正しさ』を強制されていた人々にとっては希望の時代の到来だ。

 ハラスメントという言葉はもはや耳馴染みの言葉となった。セクハラ、パワハラアルハラとはじまって現在ではいったいいくつのハラスメントが存在しているのだろうか。到底すべてを把握することはできない。『ハラスメント』という言葉の増加はそれだけ多くの人が救われる可能性を示している。それはすなわちある被害を受けていた人々の苦しみが言葉として形を持ち世間一般に認識されるということであるからだ。

 社会はどんどんと変化していく。きっと喜ぶべき変化のはずに違いない。世界は陽が昇るごとに綺麗になっていく。やがては不当に虐げられる人が存在しない真に理想的な日々が訪れることだろう。そう願いたい。

 この令和の時代の流れに乗れない者は平成の遺物として扱われることになるのだ。彼らは社会に不要な毒を垂れ流す公害であり、時代遅れで頭の固い老害だ。残念ながらまさに僕自身がそうなるであろうことを感じている。

 

 僕の中にはこれまでの社会の在り方が常識や規範として根付いている。もちろんすべてを完全に受け入れているわけではなく多少の不満や疑問こそあるものの概ね納得してきた。対照的に世界の緩慢な曖昧さを良しとせず決して妥協することのなかった人々が悪習へと戦いを挑んでいる。

 しかし時代の大きな変化というのは、自身の世界の根底的な揺らぎだ。これまで自分や周囲を省みることのなかった代償だろうか、自分の感覚を疑うことなく無批判に生きてきたツケを支払う瞬間が刻一刻と近づいている。この先の綺麗な社会に僕はきっとついていくことができない。僕の中で凝り固まった価値観がアップデートを拒んでいる。

 残酷であるとは分かっていても家畜の肉を食べ続け、女性には『女らしさ』を求め、僕は『男らしく』あろうとする。悪趣味な冗句で笑って、遠くの他人の痛みには鈍感なままだ。

 思えば僕などは生きづらさを感じたことがなかった。

 

 現状の僕を見れば奨学金により多額の借金を抱え、しがないフリーターとして決して裕福ではない生活を送っている。僕も声を上げるべきだろうか?何かを社会や他人のせいにするのは難しくないような気もする。家庭環境だって良くはなかった。でも僕はやはり人生を概ね納得している。自分の努力次第で何とでも出来るくらいの環境は与えられていたはずだ。だから僕は少なくともこれまで幸福だったと言えるだろう。

 環境によっては努力ではいかんともし難いことだってある。誰かに虐げられて耐えられないような苦痛を感じることもある。そうなれば必然的に生きづらさを覚えてしまう。社会や他の人間を憎んでしまう。人生に絶望してしまう。

 人生の批判を自身に向けることのできる恵まれた環境と、世界を肯定的に捉えることのできる自分の運の良さに感謝しなくてはいけない。「明日から本気出す」という使い古されたインターネット・ミームを屈託もなく使えるのは実は簡単なことではないのかもしれない。

 ちょうど明日から新年度がはじまる。そういえば去年も僕は明日から頑張りたいといったような漠然とした内容の記事を書いていた。今年の秋は短かった - うんざりブログ

 もちろん自身の努力不足とは言っても完全に困窮してしまえば生きづらさを感じることだろう。そうならないためにも自律した生活を送っていかなければならない。また人々の痛みに共感して素敵な世界の一員となるべく感性を磨いていく必要がある。さもなければハラスメントの加害者として批判され肩身の狭い思いをすることになるのは目に見えているからだ。

 

 ところでフリーターの僕も新年度から住民税というものが給料から天引きされるみたいです。はあ?!!!!!!!!!!!!!うっせえわ!!!!!!!!!!!!!!!!!!生きてるだけで罰金かよ!!!!!!!!!!!!!!!!!死ねよクソ社会!!!!!!ファック!!!!!!死ね死ね死ねーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!殺す殺す殺す殺す!!!!!!!!!!!!!!!コロス!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ボケ

男子トイレのすべて


 幼い頃の体験がその後の人生のすべてを大きく変えてしまうということがある。
 外で身体を動かすよりも家の中でゲームをすることが好きだった少年は、ある日、父親に連れられて野球場に行くことになった。スポーツに興味のなかった彼にとって、それはとても退屈な時間になるはずであった。しかし壮大なスタジアムの光景とそれを埋め尽くすほどの人波が彼の興味を惹いた。周囲の気温が変わってしまうほどの熱気とお腹の底に響くような爆発的な歓声が彼を興奮させていた。
 自分もいずれあの場所に立ってみたい。野球のルールなどほとんどわからない。バットを握ったことも、グラブをはめたこともなかった。それでもはじめて体験する夢のような時間が、無垢な少年に大志抱かせるのは至極当然であると思えた。
 最終回にホームチームの逆転勝利をもたらしたホームラン。夜空に綺麗な放物線を描いた白球がフェンスを超えて彼の父親のグラブに収まった時、いよいよその運命は決定づけられた。その一日が彼の人生を大きく変えたのだ。自らの人生を振り返る時、彼はいつだってその日のことを思い出す。あの偶然がなければ僕の人生はきっと大きく違ったものになっていただろうと。

 

 さて、我々の幼少期を支配していたものとは何だろうか。もちろん学校における腹痛への恐怖である。人間の負の感情により生まれ、そしてその感情を増幅させる、この実体なき悪魔はウンコマンという形で肉体を獲得し我々の前に姿を現した。ウンコマンについては以前に言及しているのでそちらを参照いただくことにしよう。

かつて僕たちはウンコマンだった - うんざりブログ

産み落とされたウンコマン - うんざりブログ

ウンコマンとの未来(完) - うんざりブログ
 小学生という幼い時分に萌芽した男子トイレへの恐怖は少しずつ成長し、やがて中学生の頃になると不良の溜まり場という形で顕現することになる。校舎内で最も仄暗い空気のこの場所が、恐怖される存在でありたいと願う者たちを引き寄せることにいったい何の疑問があるだろうか。
 以後、男子トイレは通常の機能をほとんど失ってしまうことになる。それまでもトイレの利用には常に後ろめたい感情が付き纏っていた。出入りする瞬間をなるべく他人に見られないようにする必要があった。実際には誰もが利用していることは理解していても、軽薄にもそれを公言したり指摘したりしないのが、無軌道に生きていた在りし日の我々にとって唯一の紳士的な嗜みでもあった。しかし今度はマナーやモラルなどでは許されない。完全にイリーガルな存在へと変わっていくことになる。
 暴力、違法な薬物の取引、発展場、盗撮、男子トイレといえば完全にアンダーグラウンドなイメージがついてしまった。そうなれば無秩序を求める者たちがますます男子トイレに集うことになる。これはいわば負のバンドワゴン効果、治安の低下がさらなる治安の低下を招く最悪のスパイラルの誕生というわけである。
 鶏が先か、卵が先か、いやはじまりは常に過去の学校の排便における屈辱にあったはずだ。
 夜の公園の公衆トイレが放つ異様な雰囲気。迂闊に近づいてはいけない場所だと全身の感覚が警鐘を鳴らす。入口を照らすライトの周りを数匹の蛾がくるくると飛んでいる。それは蠅が集る生物の死体を見た時と同等の生理的嫌悪感を催させた。

 

 いよいよ本題だ。男子トイレという場所は世間一般的に認識されているより実はずっと危ない場所なのだ。なにをこれまでにも十分に説明してきたではないかと思われたのであれば、残念ながらそれは些かの早とちりというものである。これまで説明してきたことはいわば『表』の悪さでその裏ではおそらく普通の生活を送る人達には想像すらしないであろう事態が起こっている。
 男尊女卑の社会だと糾弾されるようになって久しいが、少なくともトイレの使用の観点から言えば男性の方がよっぽど厳しい立場に置かれているは間違いない。その事実を知らない女性の皆様に男子トイレの現状のすべてを伝えたい。そしてこの記事が男女の相互理解の促進に少しでも寄与できれば幸いなことこの上ない。それはこのブログの最終的な目標でもある。

 

 扉の閉められた大便器の個室からは不穏な物音が響いている。獣が相手を威嚇をしているようなゴロゴロとした低い呻き声である。それはどこか苦しそうでもあり、ただならぬ出来事の発生を予感させる。しばらくすると勢いよく水の流れる音がして、扉が開いて平凡な容姿の中年男性が現れた。まるで何事も無かったかのような素振りで洗面所へと向かう。その表情はむしろ晴れやかと言ってもいいだろう。しかし街中でこのような人物が畜生の如く咆哮している様子など目にしたことがあるだろうか。少なくとも私にはそのような経験はない。
 彼は丁寧に両手を洗うとポケットからハンカチーフを取り出して手についた水分を拭き取った。そしてこの危険な場所を立ち去るかに思えたが、なんと再び両手を蛇口の下に運び、溢れるほどいっぱいに水を受けるとそのまま口に含んだ。それから顎を上げるようにして天井を見上げると勢いよくガラガラと喉を鳴らし始めたではないか。先ほど扉の向こう側から聞こえていたのとはまた少し違った響きではあるが、負けず劣らずの不気味さと、全身が総毛立つような奇妙な不快感を有している。そうして彼は私の鼓膜を思うがままに蹂躙すると、やがて満足したように口に含んでいる液体を洗面台に吐き捨てた。唾液と混ざり合いやや粘性を持った液体はゆっくりと排水溝に流れて消えたものの、おそらく彼の口腔内に存在していたと思われる食事の細かな残滓が白いボウルの上にその姿を見せていた。まるで彼自身の存在を主張するように。それは一つのマーキング行為と言えるのかもしれない。

 

 等間隔に並ぶ小便器。その足元を見てみれば床面が濡れているのがわかる。通常の使用法であればこうした状態にはなり得ない。小便器を跨ぐようにして立ち、ほとんど便器と密着しながら行為をすれば、尿は壁面にぶつかり静かに流れ落ちて排水されていくはずなのである。つまり床面が濡れているということは小便器から離れて排尿を行っているということの証左なのである。しかし床が濡れるということは自分自身の靴に、跳ね返りの尿や勢い足らずで便器に到達しなかった尿が付着している可能性が極めて高い。これが歓迎すべき事態でないことはもはや説明の必要もないだろう。
 さらに小便器と距離を取るとことによって別の問題も発生する。小便器と下半身にスペースがあるということは陰茎を完全に露出している状態でもある。それは生物としてあまりに無防備すぎるではないか。自らの急所を不特定多数に晒すなど本来有り得てはならない。
 ただでさえ男子トイレという環境においては、他人の性器を観察しようとする者が一定数存在しているのだ。横並びで排尿をしながらじっと隣の下半身を見つめる老人は珍しくない。しかしながら彼らの瞳はどこか虚ろでその行為に特別な意図は感じられない。たとえば自分のイチモツとの比較をしてマウントをとるとか、視姦することによって性的興奮を得ようなどという明白な目的は無いように思える。
 ところで男性は自身の性器に対して特別な感情を抱いているというのはよく知られた話である。自身の分身であるように扱ったり、長年連れ添った相棒(まさに相“棒”などという下ネタではない)と認識していたり、多くの男性はまるで我が子のように慈しみ名前までつけているという。そういえば男性器はよく『息子』と別称されている。
 それを鑑みれば老人が他人の男根を凝望するのは『私はお前の家族のことを知っているぞ』という無言の圧力というようには考えられないだろうか。本人に対してどれだけ凄惨な拷問を加えても全く口を割らなかった者が、自身と親しい人間への危害を匂わされた途端に簡単に諦めることは珍しくないという。これはとあるマフィアの常套手段の一つでもある。一見すると何の変哲もない男子トイレの内部では日常的に一触即発の駆け引きが行われている。

 

 それでは一体なぜそのような危険を冒してまで床面に小便を垂らすのだろうか。これについてある程度は単純な理由で説明がつく。それは既に床が他人の排尿によって汚れている場合だ。便器に近づきたくても床が汚れていれば離れて行為する他にない。もちろん自分の靴を汚す覚悟で前に進むという選択肢もあるが、それほどの勇気を求めるのはあまりにも酷というものだろう。たとえその結果さらに床を汚すことになったとしても、どうせ靴が汚れるなら他人のものより自分の小便で汚したほうがいくらかマシであるのは間違いない。こうして一度広がった床面の汚れはそれ自身をきっかけとしてどんどんと拡大していく。
 しかしこれでは発端の汚れがどのようにして生まれたのかそれを説明することはできない。いや通常考えられるすべての理由でも不可能なのだ。なぜならば男子トイレの小便器の床の汚れ、その最初の一滴は人為的に齎された物であるからだ。床面に広がる尿による汚れの跡。よく観察してみるとそれは無秩序に成立しているわけではない。一定の法則に従った幾何学的な紋様を描いている。おそらく原初の汚れは、それが後に与える影響まで完璧に計算し尽くされた上でこの世に産み落とされた。

 床面に描かれた幾何学模様。そこにポタリと垂れる人間の体液。典型的な儀式行為を連想せずにはいられない。そう『原初』の人物は、この場所に集まる人々を利用して複雑な魔法陣を創り、さらに彼らの尿を代償にこの世界に悪魔を呼び出そうという恐ろしい計画を実行したのである。その悪魔とは、おそらくウンコマンに違いないだろう。
 すべては奴の掌の上での出来事だったのだ。我々が生まれてから死ぬまで、行われるすべての排泄行為はすべてこの悪魔の支配下にあるのだ。かつては悪魔の存在に怯え、やがて悪魔を召喚する儀式の生贄とされる。我々は知らぬ間にこの生と死の循環、トイレのウロボロスに取り込まれている。
 しかしながら人間もありとあらゆる生物の一部であり、食物連鎖に代表されるようにその生命は循環している。もしかしたらこれは普遍的な自然の摂理なのかもしれない。植物を草食動物が食べ、草食動物を肉食動物が食べる。そして我々がその頂点として君臨している。我々が摂取した食物の残骸、排泄物を微小な細菌などが分解して再利用される。
 生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。食べる。排泄する。分解する。生産する。食べる。食べる。排泄する。分解する。食べる。食べる。排泄する。生産する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。排泄する。食べる。
 こうして人間は単独での循環を獲得してその繁栄は永遠のものとなった。

むかしむかし

 

 母曰く。

 私の生い立ちというのはそれはそれは奇妙なものだったようだ。

 ある日のこと。私の母が表の川で洗濯をしていると上流の方から見たこともないほど大きな桃が悠然と現れた。それは人間の赤子よりも一回りほど大きく、しかも周りに傷一つなく珠のように光り輝いている。

 この河川の水源はおそらく村の向こうに見えるあの大きな山の中であり、少なく見積もっても数里になろうかという長い行程である。それだけのあいだ水の中でプカプカと浮かんでいたにも関わらず、その柔らかな果肉に一切の痛みがないというのはちょっと驚愕ではないか。桃といえば果物の中でも特に足が早く、繊細な扱いが要求されることで知られている。つまりこれまでの説明だけでも非常に奇異な出来事が起こっていることがおわかりいただけただろう。

 不要かもしれないがここで少しだけ補足をしておこう。つまらぬ誤解が生まれるよりは冗長の方がいくらかマシに違いない。さて、件の桃が水源付近から私の家まで移動したという確たる証拠はなく、母の目視できる距離の直前で入水したということも十分に考えられる。つまり実際の移動距離はごくわずか、せいぜい数町だったというわけだ。

 これに関しては特に反論はしない。その通りかもしれないし、そうでないかもしれない。しかしたとえ桃の移動がわずかであり、したがってその柔らかな果実の状態についての謎が解明されたとしても、はたしてこの桃がどこから出現して、そしてこれほどまでに巨大であるという、より難解な疑問に関してはまったく手つかずのままなのである。だから仮に前述の説明が事実をやや誇張していたとしても、この話全体の有する奇特さは一向に失われることはないのだ。

 閑話休題。桃を川から引き上げた母は、何を血迷ったか家へと持ち帰ってしまった。履き古した襤褸の草履ならいざ知らず、それほど美しく立派な果物であれば何か裏があると考えるのが普通であろう。御上への献上物という可能性もあるではないか。幕府に対して盗みを働いたとなればこれはもうとんでもない大罪である。本人は釜で茹であげられて殺された後、一族郎党まとめて処刑にされてもおかしくない。しかしやはり奇妙なことにどれだけ経っても桃の持ち主などという人物は現れず、遺失物法の定めるところにより、その見事な落とし物は晴れて母の所有するところとなった。

 とにかく母は家に帰り、中心部に暖かな輝きを見せる果実を真っ二つに切った。すると驚くべきことにそこに瑞々しい果肉などは詰まっておらず小さな赤ん坊が静かに眠っていた。それが私というわけだ。俄かには信じがたい話だとは思うが、母は真実だと言って憚らない。もちろん私もそれを信じていた。なにせ人の少ない場所で暮らしていたのである。母以外の人間とはじめて会ったのはずっと後のことであり、私の世界は母だけだったのだ。

 ところで母はかつて結婚していたらしい。しかし私が産まれる前に父は亡くなってしまったとのことだった。山で芝刈りを行っている最中の不幸な事故だった。母はその人のことをあまり話したがらなかった。

 やがて順調に成長した私は一つの使命を帯びていた。それは近くの島を拠点に活動している『鬼』を退治することである。鬼は人々から金品を強奪し殺し回る暴虐な生物であった。奴らを殲滅して人々に平和な生活を取り戻すことが母の何よりの願いだった。

「鬼を殺して……鬼を……」

 臨終の床でまるで呪詛のように母は呟いた。幼い頃から鬼への憎悪を聞かされて育ってきた。数年前に病に伏せてからは、自分に残された時間が少ないことを感じたのか、いっそうその思いに取り憑かれていたようだった。焦燥感に心を焼かれ、肉体よりもよっぽど先に精神の方がおかしくなっていた。

「桃から生まれた桃太郎よ」

 かつて私の名前を教えてくれたことがある。教えてくれた、とは我ながら何とも奇妙な言い回しだ。しかし実際、母はこうして名付けておきながら結局ただの一度も私の名前を呼んでくれたことはなかった。

 母の死後、私は家を出た。母の願いを叶えるためだ。最後まで私は母の望む息子でいた。きっと上手く演じることができたはずだ。それが忌み子である私を、歪んだ形ながらも育ててくれた母にできる唯一の親孝行だった。母の話を信奉してあげることが彼女を救うための、たったひとつの冴えたやりかただった。

 しかし私は母が望むより多くのことを知っていた。たびたび母の目を盗んでは近くの集落まで遊びに行っていた。そこではじめて自分たち以外の人々と出会い、さまざまなことを知った。「鬼」という生物は存在せず人間の野盗の集団がそのように呼ばれていること、かつて母の家族が鬼に皆殺しにされたこと、人間は桃からは決して生まれないこと。

 私は母を愛していた。だから彼女を苦しめた相手に復讐する。たとえその結果命を失うことになったとしても。

 私は母を憎んでいた。だから彼女に復讐する。たとえ私という存在が望まれない生命だったとしても、私自身だけは私がこの世に生まれた事実を否定したくない。私は母の子なのだ。

 誰にも呼ばれることのなかった桃太郎などという名前は捨てた。今日からは膣から生まれた膣太郎だ。

靴ひも

 

 あらためて自分の身体というものを考えてみるとよくできているものだと思う。頭からつま先にいたるまで細かな血管が張り巡らされ、決して滞ることなく血液が循環し続けている。もちろんこれは僕たちがこんこんと眠りこけている間であってもである。もしもこの流れが止まってしまえば身体はどんどんと腐ってしまうし、それが脳のような重大な器官であれば、すぐに死んでしまうことになる。

 たとえ天下に悪名轟かすプータローだとしても、その身体の内では絶え間なく様々な仕事が行われており、とてもその肉体を指して「怠け者」などとは言えないのかもしれない。今日も明日も生きていく皆さんは少しくらい自分のことを褒めてみてもいいだろう。

 しかし、僕たちは誰でも常に自分の身体と心を完全にコントロールできるわけではない。『自分』というものがいったいいくつの部品から成り、それを寸分の狂いもなく精密に動かさなくてはならないことを考えたらむしろ当然のことであると言える。アポロ11号が人類を月に連れて行ってから五十余年。科学技術はさらなる発展を続けているが、そんな時代においても、人間の動きはとてもロボットなどでは再現できないのだ。僕たちの身体や心というのはそれほどまでに複雑怪奇に極まっている。

 だから、ふとした弾みで、いつも無意識に行っている動作に微妙なずれが生じて奇妙な結果になってしまうことは日常生活において誰しもが経験していることだろう。たとえば、誤字を訂正しようとして再び同じ書き間違いをしたり、普通に食事しているだけで口の中を噛んでしまったり、ただそれまでと同じように足を進めればいいのに何とはなしに歩幅が崩れてしまったりすることが。

 ひとつの歩幅のずれは全身に微妙な影響を及ぼす。次の足が上手く対応できずに再び乱れてしまえば転倒の可能性もある。首尾よく立て直して自然な歩行を取り戻したとしても、足元を見てみれば片方の靴のひもがほどけていたりする。可憐なリボンがあったはずの場所には、酔いつぶれて玄関で昏倒しているかのごときグッタリとした二本の細長い布が転がっている。とはいえ靴ひもとはそんなことでもなければ簡単には緩まないものだ。ちょうちょ結びなどと可愛らしい呼び方をしても、なかなかどうして堅固なものではないか。

 ポケットに入れておいたイヤホンがいつの間にか絡まりあっている。その奇妙な形相は、白い円筒状の台座の上に飾っておけば意味不明な現代アートのように見えなくもない。幾重にも交差し絡まる二本の線は、まるでクリストファーノーランの映画のように複雑で、もちろんひとりでに解消したりなどしない。紐とは結ばれやすく、解けにくいものだということがわかった。これは宇宙を支配するエントロピーの法則から考えても明らかだった。物事は次第に乱雑で無秩序で安定な状態へと変化するのだ。

 ところで、靴ひもは一度でもほどけると途端にほどけやすくなる気がしないだろうか。それはまるで靴ひも自身が『ほどけ』の経験をきっかけとして、ほどけるという行為を思い出しかのようである。しばらくぶりに結びなおしたはずの紐が、数刻も経たないうちにまたばらばらになってしまっているということは珍しくない。その後も何度か同じことを繰り返して、やがてすっかりと飽きてしまったのか、再び靴ひもは長い眠りにつく。

 靴の紐を一人で結べるようになったのはたしか小学生になったばかりの頃だ。はじめは勝手がわからずに失敗してしまったが、何度かの挑戦を続けて綺麗なちょうちょを作れるようになった。僕たちの人生も靴ひものように、結んではほどけ、ほどけては結びを、繰り返す。なんだか失敗続きの日々があり、またその反対の時もある。それはきっと『思い出している』状態で、やがては平生に戻っていく。

 結び目を、しっかり、ほどけないように、かつて教わった言葉を反芻するように呟く。明日を生きる人々は立派だ。頸動脈への強烈な圧迫により脳への血液の供給はまもなく止まり、やがて僕に安定が訪れるだろう。

ウンコマンとの未来(完)

 

 僕たちは過去への恐怖を克服することができず排便行為を忌避した。そして現代の魔女狩りとばかりに迫害を繰り返した。駆逐すべき悪魔は自分自身が生み出したものとは知らずに。在りし日より幾千もの月日が流れ、もはや老いた母親を山に捨てに行く必要はなくなった。しかし未だに僕たちは飢えを恐れ続けているのだ。石を投げる僕たちが鏡を覗けば、そこにはきっと恐れ、憎んだ、相手が立っているに違いない。

 しかし少しずつでも僕たちは、少なくとも僕は、そのことに気がつくことができた。いずれはこの社会も、たとえその歩みは遅くても、変わっていくことだろう。あらゆる差別や偏見にまぎれてウンコマンも過去の過ちとして記録されていく。やがてはそれすら失われて『ウンコマン』という概念そのものがすっかり綺麗に消え去ってしまう。そんな世界がきっとくる。ただ残念なことに遠い未来に咲く希望の話だ。理想に身を捧げることもできるけれど、正直者は報われるなどと夢物語を信じるにはあまりに年齢をとりすぎた。僕たちはのこの世界で、石をぶつけられないように生きていくのだ。

 

 ここで『男性用トイレにおけるジレンマ(便意の解消と大便器の使用の回避)』の解決に向けての近年の歩みを紹介しておこう。現在に至るまで侃諤の議論がなされてきたが未だ完全な解決には至っていない。なおジレンマとは題されているが、実際には便意の解消を優先せざるを得ず、大便器の使用の回避が併存できないか探る試みである。さらに言えば、正確には、大便器の使用が問題なのではなく使用に伴う羞恥が問題であった。これは小と大の両機能が一体となっている女性用のトイレではジレンマが生じていないことからも明らかだった。こうして命題の誤謬を緻密に訂正するところからはじまり後の議論へと広がっていく。

 まず起こった考えは『大便器の使用と羞恥の回避』がともに成立する状況での排便というものだった。自宅での排便がこれに該当する。公共のトイレでのウンコを制限するという単純なものだったが実際これだけですべてを解決することができた。あっという間に大多数の支持を得て議論の本流となったが、外出先での突然の腹痛という致命的な欠陥が判明してからはだんだんとその勢いを失っていった。十分な予防により回避できるという反論もあったが、人間の生理的な現象には完全には抗えないという再反論には誰しもが沈黙せざるを得なかったのである。

 こうして『孤独』派は影響力を失っていったが、ある一人の学者が新たな意見を打ち出した。それは自宅でのトイレ環境を外でも再現できれば良いのではないかというものであった。つまり誰もいないタイミングを狙ってトイレに入るというものである。圧倒的な賛同を得ていた『孤独』派の没落以後しばらく議論そのものが停滞していた状況において、これは大きな火種となり活発な論争を生んだ。しかし最終的には、理想のトイレ状況の成立は完全に他人の動向に依存するものであるとしてその不確実性が指摘されることとなった。もしも理想状況でトイレに入ることができたとしても、途中で誰かが来てしまえば再び理想状況を得るまで動けなくなるという点も問題だった。また個室の中から伺える外の情報は限定的であり、そもそも理想状況の成立は決して確信できない、つまり我々は二度と個室トイレの外に出ることができなくなるというシミュレーション結果も提示された。さしもの『孤独』派も個室トイレでの永遠なる孤独までは望んでおらず、いよいよその勢いは失われることとなったのである。その後の彼らはわずかな人員で活動を続けているものの現在までに大きな成果をあげることはできずにその名前はすでに過去のものとなっている。

 こうした失敗の歴史により人々の間では発想の転換が必要との認識が高まっていた。個室トイレの使用を悟られないようにする、という方策から、堂々と個室トイレを利用した上で羞恥を回避するというものへと移行していったのである。その代表的な例を挙げていこう。

 一つは『便所飯』である。その名の通り、個室トイレで食事をするというものである。正確には食事のフリなのだが、とにかく周囲の人間にそう思わせることが肝要であった。便意を感じた時に、お弁当などを持参することにより、堂々と個室トイレを利用できるというアイデアだった。便所飯とはもともと、食事時に行き場のない者が人目を避けるために個室トイレを利用することを指す言葉であった。当時、このような振る舞いが流行の兆しを見せており、その中で『便所飯』の発想を得たという。食事が便所を利用するのであれば、便所も食事を利用すればいいという考えは、地球中心から太陽中心へというかつての天文学における転回と同じだけの衝撃を与えることとなった。しかしこの考えもまた完全には成功しなかった。トイレの使用回数=食事の回数という印象を与えることとなり「あれだけ食事をしているのであればさぞたくさんウンコをしているに違いない」と却ってウンコマン化を促進してしまったのである。

 もう一つは『大小便器一体化』である。これはつまり大小便器で区別のない女性用トイレの模様を男性用トイレにおいて再現しようという試みであった。常に大便器のみを使い続けることで周囲からは小なのか大なのか判別ができなくなるというわけである。このアイデアはこれまでの議論を根本から覆すこととなった!この革新的な考えが何より大きな貢献を果たしたのは、人々と便器の関係を再構築したことにある。それまで人々は大便器を恐怖の対象と捉えて忌避すべきものとして扱ってきた。しかし大便器の積極的な使用が求められたことにより、人々は大便器の本質へと触れることとなったのだ。温水便座や音姫など、大便器には人々の安寧な生活を維持するための数多の機能が備わっていた。彼らはそれにようやく気がつき、ただひたすらに厳しく試練を与えるだけの存在ではなく、自分たちの生活を優しく見守っている存在でもあると悟った。こうして大便器は畏怖すべきものから崇拝の対象へと変わっていった。これは我が国における信仰の在り方とよく似ている。

 現在ではこの方法が最も多くの支持を得ている。しかしいままでの歴史と同様に、日々その在り方は見直されていくことだろう。最近でも主流に対するアンチテーゼとでも言うべく『小大便器一体化』という考えが発表された。大便器ではなく小便器で大小便を済ませようというわけである。これはウンコマンを神格化する一派によって主張され、界隈でも大きな波紋を呼んだ。 以下は彼らの声明の一部である。

「排便を公開することによって、排便への羞恥は薄れていく。隠匿などするから背徳を生むのだ。そもそも排便は自然的行為であり我々は何も間違ってはいない。それなのにどうして逃げ隠れする必要があるのか。いまこそ反逆の狼煙をあげる時なのだ」

 決して少なくない人数がこの意見に賛同したが、非常に過激で危険な思想であるとして結局は採用を見送られた。しかし若者世代を中心としてインターネットなどでいまだに熱狂的な人気を誇っている。リモート派の台頭や、伝統的なオムツ派の復権など、時代はまだまだ大きく動きそうである。

 

 これまで数回にわたってウンコマンの成立から現代での在り方などについて書いてきた。僕たちは大きな岐路に立たされており、これからの数十年は歴史的に大きな意味を持つと予想されている。人類が生み出したウンコマンという存在が、ただ大きな罪として抹消されていくのか、何か意義を持って記憶されていくのかは、僕たちひとりひとりのこれからの行動次第なのではないだろうか。

 最後に、ここまでお付き合いいただいた読者諸君に大変な謝意を示したい。君たちの支えなくしてはここまで続けることはできなかったに違いない。長々と書いてきたがこれにて拙文の結びとさせていただくとしよう。