うんざりブログ

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産み落とされたウンコマン

  

 男性用トイレには小便器と大便器それぞれ目的に合わせた異なる便器が用意されている。男性の場合は、女性とは異なり、排便と排尿で同じ姿勢を取る必要がない。同じ面積であれば小便器の方がより多く設置できるため、混雑時の回転などを考えるとより合理的な方法なのだろう。しかし合理性を追求した先に必ずしも幸福が待っているとは限らない。

 資本主義は人々を豊かにしただろうか?経済的な成長や物質的な充足が却って我々の生活を貧しくした気がしてならない。現代的価値観における『文明』の発展とともに『人間らしさ』はだんだんと失われていったのだ。男性用トイレにおける合理性の発達もまた新たな問題をもたらした。それは以下のように説明されている。

あなたが電車に乗っていると、突然、腹部に強い痛みを感じた。やむなく目的の駅の手前で降りてトイレに入った。中では他にも数人が用を足していて、あなたに気がつき動向を観察している。いまあなたは大便器の個室へと向かっているがこのままでは『ウンコマン』だと思われてしまう。ここで進路を小便器へと切り替えることができるが、その場合には便意は解消されない。あなたは進路を変更するべきだろうか?

 これは男性用トイレにおけるジレンマである。大便器を使用すれば恥ずかしい思いをしてしまうが、大便器の使用なくして腹痛を治めることはできない。もうすでに気がついていると思うが、これはあの有名なトロリー問題と同種のものである。便意の解消と羞恥心の回避という併存しえない選択は、ベンサムとカントの主張の対立を想起させる。トロリー問題で扱われている事象が非現実的なものであるのに対して、この問題は実際に日常的に我々の身に起こっているものである。便意を覚えるということ、それはすなわち功利主義と義務論の狭間での彷徨を意味しているのだ!

 この問題が合理性を追求したことによる弊害だというのは前述の通りだ。そしてこれ自体が資本主義よろしく新たな格差を生む原因となってしまっている。つまり(便意を)持つ者と持たざる者だ。トイレ内での価値はすべてこの便意が支配している。いかに優れた人格を持つ人物であろうが関係ない、便意を持つ者は負け犬なのだ。小便器へと導かれるレールから外れ、大便器へと向かった時点で落伍者として見做されることになるだろう。

 もちろんこの学説が誤っていると指摘する学者もいる。ウンコマンという概念は、我々がまだ未成熟の時期、それも学校という特殊な環境でのみ発生するものであり、一般社会には存在していないと。たしかに表面上はそうかもしれない。幼い学童と同じように他人の排便を囃し立てるようなことはしないだろう。しかし我々とはそういう生物ではなかったか。対外的な体裁だけ取り繕うことばかり上手くて、口先ではあらゆる綺麗事も並べて見せるが、いざ他人の目を外れるとまるで人が変わったかのようにどんな非道徳もやってのける。『恥の文化』を持つ我々はただなんとなく社会規範に従っているだけで、心の奥底には常に他人の排便をバカにしようという狂気が渦巻いている。

 そして排便行為をバカにされるのが恥ずかしいと考える者たちの存在こそが、この説の一番の裏付けとなっている。排便行為をバカにされたくないということは、つまり排便行為をバカにしているということなのだ。他人をウンコマンにするということは、自分自身もまたウンコマンになる可能性を生み出してしまうということである。なんという皮肉であろうか。悪魔は自身に恐怖し遠ざけようとする臆病な心に反応して引き寄せられるという。

怪物と戦う者は、自ら怪物にならぬよう用心したほうがいい。
あなたが長く深淵を覗いていると、深淵もまたあなたを覗き込む。

  これは19世紀の哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉である。

 

 もしも男性用トイレが女性用のものと同じように個室だけが用意されていたらこれらの問題は起こらなかった。我々の秘密はその扉の中に固く閉ざされて、やがて便器を渦巻く水流と共に永遠に葬り去られるのだ。扉を開けてみるまでウンコとシッコのどちらであるかを観測することはできない――量子力学における最も有名な思考実験を思い出さずにはいられない——もしかしたらウンコとシッコどちらもという場合もあるかもしれない。事実は小説よりも奇なりといったところだろうか。

 

 ある男が小便器で用を足している。男はイライラしていた。先ほどまで行われていた競馬のレースで数万円を損したためだった。そこに別の男が駆けこんできて、個室の扉を慌てて閉めた。その男は高級そうな黒のスーツに身を包んでいた。小便を続ける男は平静を装ってはいたが、スーツの男が通り過ぎる瞬間に自分の方をチラリと伺ったことに気がついていた。ボンヤリと正面を見ているようで横目でしっかりとスーツの男を確認していたのだった。スーツの男はきっと自分が個室に入ることがどう思われるか気にしているに違いない、と男は考えていた。男が最後の一滴を尿道から絞り出した時、先ほどとはうってかわって、その背中は天に向かうようにピンと伸びきっていた。

かつて僕たちはウンコマンだった

 

 ――部屋の外からワイワイと楽しそうな声が聞こえてきた。暑さも、寒さも、日光も、何も防いではくれないような薄手のカーテンを開けると、家の目の前の道路を、学校帰りの子供たちが列をなして歩いている。密集する建物の間を縫うようにして西日が差し込み、暗い地面にわずかばかりの日向を落としていた。そこを駆け抜けていく彼らの顔はいっそうキラキラと輝いて見える。穏やかな昼下がりだった。前を走る友達を必死で追いかける小さな身体の男の子。彼が一歩踏み出すたびに黄色の帽子が左右に大きく揺れた。僕の頭の中では、やがて朽ちるのを待つだけだった、埃を被った古い記憶が、急速に鮮やかな色彩を取り戻していた。

 当時の僕たちはたしかにこの世界の主人公だった。挫折も絶望も知らないままでいたから無限に広がる未来を信じて疑わなかった。しかしそんな無敵にも思える僕たちでも恐れていたものがたった三つだけあった。それは、給食に出てくるグリンピースと、終業式の日に持ち帰らなくてはいけない大量の荷物と、それから学校で不意に催す便意だった。

 

 小学校の男子トイレとは、いかに遠い距離であっても便器の外に零すことなく排尿を完遂できるかを競う遊戯施設である。そのため何のために存在しているかまったく不明であるはずの個室の扉が閉められていることなどあってはならない。もしも扉がそのような状態になっている場合、中では重大な犯罪行為が行われているに違いない。そのため児童たちは扉を叩いて、野次を飛ばし、扉の向こう身を隠す卑怯者を煽り立てる。隣の部屋の便器に上り、仕切りの上から見下ろすということも珍しくない。

 学校のトイレでウンコをした者は、ほとんど犯罪者と同様に扱われることになる。そして不浄なる存在として一時的にカーストの最底辺に追いやられることになる。さらに『ウンコマン』の汚名――この場合はまさにそのままの意味である!――を拝することになった。奇妙なことにこの事象は年代や場所を問わず、現代の日本全国において普遍的に確認されている。つまり『ウンコマン』は日本人の心に眠る集合的無意識の顕在化と言えるのである。

 やがて成長を重ねた我々の生活から『ウンコマン』はその姿を消していく。しかしながら損益を計算することなく活動していた少年期の時分にこそ、純粋な動物としての『人間』の姿が現れていたのではないか。彼らの行動原理は非常に原始的な欲求に基づいていたはずなのだ。そうであればこれほどまでに校舎内での排便が忌避されるにもきっと明確な理由が存在する。

 学校内での排泄とはつまり自分たちの領域に生活の痕跡を残すということである。我々は今でこそコンクリートに囲まれて暮らし、安全な生活を大きく脅かす外敵など存在していないが、かつては自然の中で他の多くの動物たちと生きていた。『原始的』な動物であった我々にとってそこは非常に厳しい環境であり、常に多くの危険があったに違いない。排泄物の強烈な臭気によって自分たちの居場所が知られてしまうことは、時に命取りとなったことだろう。(もちろんその頃にはボタン一つで水を流して排泄物を葬ることなどできなかった)

 我々のよく知る『文明』が築かれたのは、この惑星の歩みを考えれば、それほど長くないホモ・サピエンスの歴史の中でも至極最近のことである。つまりそれまでの間ずっと我々の祖先は排泄行為に伴う危険と隣り合わせだったということである。それでは排泄行為に対して敏感な遺伝子が生き残り、そうでない者が淘汰されてきたことに何の疑問があるだろうか!異常にも思える男子小学生の学校内での排便への執着は、この惑星での生存競争を勝ち抜くために受け継がれ続けた、我らが種の血脈(けちみゃく)なのだ。

 大人になればこのような習性はだんだんと薄れていくかもしれない。しかし忘れてはならない。現代の世の中を支配する社会規範など、我々の持つ本能に比べればはるかに短い歴史しか持たないことを。街に出れば多くの人を目にする。その誰もが『社会性』の名の下に隷属するフリをしているが、心には決して抑えることのできない怪物を抱えているのだ。彼らは時々その扉を叩いて、僕たちを衝動的に突き動かす。それは奇しくも、トイレの個室の扉の前に立つ男子児童の姿に似ている。

 

 ーー我々は人間だ。この惑星における生存競争に勝利しあらゆる種の頂点に君臨している。かつてはその苛烈な混沌の一部に甘んじていたが、いまは一方的に支配して駆逐、蹂躙することができる。もはや恐れるものはなにもないのだ。もうウンコマンは必要ない。それは過去に怯える醜い幻想の産物だったのだ。いま我々は呪縛から解き放たれて未来へと前進する。

 かつて僕たちはウンコマンだった。

頼むからアンチであってくれ

 

 

 インターネットにおける有名人への誹謗中傷が問題になっている。誰かの言葉の毒にあてられて心を病んでしまえばそれを理由にさらに多くの悪意が集うことになる。

 そうした事態を防ぐための法の整備が謳われて、実際に、ひどく中傷してきた相手に対して訴訟を起こした有名人もいる。インターネットが生活の一部となった現代で、現実と同様のモラルやルールが求められるのは至極当然の流れだ。しかしそれらが多少の抑止力になったとしてもすべての犯罪行為が完全になくなるわけではないのもまた現実と同じことだろう。

 それならばこれもまた現実と同じように自らの身を守るための行動をしなければいけない。きっと一番簡単なのは悪意を含むすべての情報を遮断することだ。つまりインターネットをやめてしまうということである。犯罪などと大げさな話でなくても、SNSでのやりとりに疲弊してアカウントを削除したり、トラブルとなってしまった相手をブロックしたりという経験は多くの人にあるだろう。インターネットそのものへの接続を控えてしまえば、少なくとも自ら嫌な言葉を拾いにいってしまうという体験は防ぐことができる。

 インターネット上での他者の悪意など、そのほとんどは自らが認識さえしなければ存在していないも同然なのだ。たとえば僕があなたを想い、そして憎んでいることなどきっとあなたは知りもしない。そしてこれからも気がつくことなどないのだろう。それでいいのである。

 しかし実際にこれだけでは問題の解決は難しいかもしれない。たとえ情報の遮断を決意したとしても、自らに対するありとあらゆる罵詈雑言が並べ倒されていることを考えてしまったらどうしても気になってしまうのが人というものだろう。それに自分ひとりが情報を遮断したとしても、現実世界で関わりを持っている周囲の誰かによってインターネットの世界に連れていかれるかもしれない。それを防ぐために現実世界でのアクセスを遮断してしまったらそれはもはや心を病んでいるに等しく本末転倒だ。

 それではどうすればいいのだろうか。答えは原点回帰とでも言うべくひどく単純なものだ。すなわち『気にしない』ということである。

 

 他人に悪口を言われて傷つくのはどういう状況だろうか。もしもまったく的外れな批判をされたとしたら怒りや悲しみなどではなく疑問を感じ不可思議な気分になるのではないだろうか。たとえば痩身の相手に対して肥満を揶揄するような言葉を投げつければそれはもはや一種のユーモアである。相手を実際に傷つけたいのではなくまったく間違った言葉の選択をしてしまうという自らのずれ具合を開示することによる笑いの提供だと誰もが考える。しかしまるで冗談にしか捉えられないような行為を本気で行っているとしたらどうだろう。それはつまり批判者にとって攻撃するべきは対象者そのものだということになる。批判されるべき理由や条件の成立により批判が生ずるのではなく、とにかく批判されるべきだから批判を行うという論理なのだ。ゆえにそこに論理性などは存在するはずもなく、ただただ対象が気にくわないからとすべてに文句を言えば、内容がチグハグになるということも起こり得る。

 インターネットリンチの場合はほとんどこれである。そこに理由を求めてはいけない。寄生獣が人間の脳に寄生した瞬間に『この種を食い殺せ』と命令を受けたように、彼らも『インターネットで無関係の他人を叩く』という本能の訴えを受けているのだ。アンチ行為というのは嫌いだから嫌いなのであり、嫌いだから批判をするのだ。世間が嫌っているから自分も同様に嫌いであり、世間に嫌われているから苛烈な批判に晒されることを受け入れるべきに違いないというわけなのである。

 他人の炎上をお祭り行事のように捉えとにかく事を荒立てようと画策する愉快犯的なアンチ、自らの行動を社会正義と信じて疑わず少しでも失態を犯した者は極悪人に相違ないのだからとことんまで叩かれるべきと考えるアンチ、もはや存在すべてが理由もなく憎くてたまらず一切を否定しようとする逆信者アンチ、などさまざまなアンチが存在しており、どれだけ誠実に生活していてもいつその標的になってしまうかわからない。

 だから気にしないほかにないのである。公明正大で他者に優しくみんなに支持されている人物がいるとする。しかしそれでも彼を嫌う人物も存在するだろう。みんなに好かれていることを理由にアンチになることもあるかもしれない。そういう話なのだ。アンチの存在を気にしてしまうというのは、世界中の全人口に好かれようとしているのと同義である。はじめから不可能な話だ。

 

 いままでの人生で何度も叱責されてきた。そのたびに思うのである。目の前の僕を批判するこの人がアンチであったらどれだけいいだろうかと。ただ僕のことが理由もなく嫌いだから怒っているのである。具体的に何かを説明することはできないけれど、僕が憎くてたまらないからとにかく罵詈雑言を浴びせているのだ。そうだとすれば僕は何も気にする必要がない。他人に敵意や悪意を向けられること自体は悲しいことではあるけれど、それもアンチが相手なのだ。誰かを傷つけることに注力するようなイカれた精神の持ち主なのだから、それほど落ちこむこともないだろう。

 しかし実際はそうじゃない。きちんと僕を見据えているのだ。仔細に改善点を指摘されるものだから僕自身が否応にも向き合わされることになる。それがたまらなく辛い。アンチの声には耳を塞げても、自らの声にはできない。世界中が僕のアンチになればいい。そうでなければいよいよアクセスを遮断する他にない。

 

 アンチ云々などというのはすでに知名度のある有名人にこそ深く関わる問題であって、一般人には基本的に無関係の話かもしれない。しかし不適切な行為による炎上などは誰にでも起こり得る。こういった場合はもちろん本人にも責任がある。つまり裏を返せば自分の行動によって防ぐことが可能ということである。ほかにも仲間内でのSNSトラブルやネットイジメ、ネットストーカー被害などインターネットが生活の一部となった今日だからこそ起こる問題はさまざまある。その便利さの陰に潜んでいる危険性について認識するとともにいま一度インターネットとの向き合い方を考えてみるべきではないだろうか。

 

 

 『生理的に無理』というのが好きな女の子のあなたへの評価である。彼女が友達と話しているのをあなたは偶然聞いてしまった。実はこの言葉も構造的にはアンチと同じだ。具体的にどこがダメというわけではなくなんとなくボンヤリと存在を否定しているのである。つまり本当はあなたを拒否する言葉など何一つないのだ。だからあなたはその言葉を無視することができる。当時アンチの生態を知らなかった僕はこの言葉を真に受けて深く傷ついてしまった。それからというもの彼女のSNSを監視して複数のサブアカウントでリプライやコメントをすることしかできなくなってしまった。僕が彼女を想い、そして憎んでいることなどきっと彼女は知りもしない。そしてこれからも気がつくことなどないのだろう。それでいいのである。

オタクの好きなオオカミ少年

 

 むかし、むかし、ある村に、ひとりの少年がいました。

 少年の仕事はヒツジの世話をすることで、丘の上にいるヒツジたちの面倒を見ていました。 

 来る日も、来る日も、同じことを繰り返す生活に、少年はちょっと飽き飽きしていました。なにか面白いことは起こらないかと期待して、退屈な日常を耐えるばかりでした。

 ある日、少年は叫びました。

「オオカミだ、オオカミがきたぞー!」

 少年は村を隅から隅まで走り回りながら、できる限りの大声を出します。村で一番偉い村長から、この前産まれたばかりの小さな赤ん坊まで、少年の声を耳にしない者はいませんでした。

 みんな家から大慌てで出てきてオオカミの襲来に身構えています。大きな鋤や鍬を抱えている人もいました。

 そんな様子を見た少年は大変に興奮して息を切らしているようでした。これはもちろん走り回ったためだけではありません。

 それからというものしばしば少年は同じように村全体を駆け回りました。手に持った鐘を鳴らしながらオオカミがきたことを知らせます。そのたびに村人たちは家から飛び出して大きな危険へと備えます。

 これが何度か繰り返されるうちに、少年の声に反応する人の数はどんどんと減っていきました。そしてある日とうとうただのひとりも家から出てくることはありませんでした。

「オオカミだ、オオカミがきたぞー!」

 かつての少年は力の限り叫び続けます。誰も出てこないとはわかっていても叫ばずにはいられません。それは自分を奮い立たせるために必要でした。

 目の前のオオカミたちはあの日と変わらぬ邪悪な光をその瞳に湛えています。幼い自分を守ってくれた村の大人たちのように、今度は自分がみんなを守る番です。

 子供たちが手に持った鐘をガラガラと鳴らしながら村を練り歩きます。今日は年に一回のお祭りの日です。

 村で一番のおばあさんは、無邪気にはしゃぎ回る子どもたちを見つめています。その顔はとても穏やかで、でもすこしだけ悲しそうです。

 おばあさんは、村の大人たちと、あの元気なおにいちゃんが命をかけて取り戻してくれたこの退屈な日常に改めて感謝をしました。

 あの日から、オオカミは一度もこの村に現れることはありませんでした。

年上好きの女 年下好きの男

 

 わけわからんコメンテーターの主な著書みたいなタイトル。

 

 年の差婚などと言うけれど、この場合の年齢差というのは絶対的な差で考えるよりも相対的な差で考えるべきではないだろうか。40歳と50歳の中年カップルであればおかしなことはないけれど、27歳と17歳ならばこれはとんだ大問題だ。もちろんそれも月日を経て80歳にでもなればすべて解決するのだけれど。その頃には年齢による違いなどほとんどないようなものだし、そもそも男女の違いすら分からなくなってくる。

 人間の社会的立場の違いや、精神的な成長は、時間の進行に対して全く同じような傾斜で変化するわけではない。20代までは大きく変化するだろうし、その後はややゆっくりと、老年期になればかなり穏やかになるかもしれない。やはり若いほど年齢の影響は大きいのではないか。

 また学生は学年というもので個々の所属が明確に示されている。生まれた年度によってはっきりと区分されているわけだから、年齢による立場の違いは強く意識される。だから若者にとっての年齢の違いというのはとても大きい。年齢の差がそのままステータスに反映されることも少なくない。

 なぜ女性は年上の男に惹かれるのだろうか。彼女らは年上男性の、大人の余裕があって、深い包容力を持ち、強く頼れる部分に魅力を感じているらしい。そして決まってこう言うのだ。

「同い年の男たちはみんな子供っぽい」

 僕はずっとこの言葉に納得できないでいた。ただもしかしたらこれは嫉妬なのかもしれない。高校の同級生のあの娘が大学生の男と付き合っていたこと、大学の同級生のあの娘が入学早々に先輩と付き合っていたこと、そのような出来事の積み重ねが僕の価値観を歪ませたのだろうか。

 現在の僕はより若い女性にとっての年上男性の立場だ。しかしここで主張するように年下の女性を簡単に虜にするような実情はない。それは認めなくてはならない。だからもしも僕が間違っているのならば、貝のように閉じてしまった心を開いて、深い海の底から救い上げて目を覚まさせてほしい。

 

 先述の通り、若者にとって年齢というのはそれだけで一種のステータスとなり得る。女性にとって年上の男性というのはそれだけでたくましく、スマートで、頼りがいのあるように思えるのだ。しかしほとんどの場合それは先入観や雰囲気などによって造り上げられた幻想にしか過ぎない。

 社会的立場や、精神的な成長が年齢に大きく影響されることについては既に述べた通りなので、実際に影響が全くないとは言わない。しかしそれはやがて誰もが獲得するものだ。同級生のヤンキーにビクビクしながら学生生活を送っている平凡な高校生であっても、小学生に混ざれば比類なきほどの強靭な体躯と運動能力を有した存在として君臨することになる。だからなんだと言うのだ。処子に言い寄る年上の男は本質的にそれと大差ない。

 新入生にいちはやく唾をつけようと新年度になると画策をはじめる輩。彼らにとってはこの情報的不均衡の構造こそが生命線なのだ。何も知らない相手だからこそ成立する取引であって、無知な老人相手に不必要なオプションを付加して契約する携帯電話キャリアのように姑息で、ほとんど詐欺同然のやり口だ。

 しかしかくも愚かなうら若き乙女は簡単に騙されてしまう。いずれ誰もが通る道に見つけた一つの足跡を特別なものと誤解してしまうのだ。未開の地を切り開く先駆者のものであるかのように。実際には他にも無数の足跡が存在しているというのに。

 それくらいの単純な事実を見抜くこともできず、恋愛中心にしか物事を捉えることのできない色ボケに、人生とは何やらと説かれるのだからたまったものではない。もしも男女の立場が逆ならば、女性に少し優しくされただけで骨抜きになってしまう情けない男だとなるだろう。もしくは極度に女性慣れしていない恥ずかしい奴だと言われるかもしれない。女性を食い物にすることしか考えていない下劣な輩に騙される若い女のいったい何が違うというのか。

 年上男性が魅力などと言う女は自分で成長する気がないのだと思う。パートナーとともに困難を乗り越えようなどという覚悟も一切ないのである。だから未成熟の存在を否定して、完成されたように見えるものに簡単に喰いつくのだろう。社会人の彼は経済的にも安定していて、精神的にも大人の余裕がある、か。そうか。

 そもそもの話をさせてもらえれば、彼らは本当に大人だろうか。いつまでも遊びまわって、いい加減に落ち着くこともせずに、いつまでも近所の公園の砂場で年下相手に無双している。同世代から見たら異常者に見えるその行為も、小学生からしたら憧れのヒーローに思えるのかもしれない。

 もはや大前提が崩れてしまった。誰もがいずれ手にするはずの「大人」という要素だけでチートしていた彼らだったが、実はそれすら正しくなかったのだ。性欲に忠実で理性を持たない彼らはほとんど猿のようなものだ。さすがに猿ではかわいそうなので猿人くらいにしておこうか。おわり。

 

 

 

 いや待てよ。猿人ということは僕らホモ・サピエンスの先祖に当たるということではないか。つまり彼らは僕よりもはるかに大人な存在だということになる。そして猿人が生存していたのは現代よりおよそ100万年も前と言われている。それはもう気が遠くなるほど昔の話だ。僕らの前世、いや前前前世くらいの話かもしれない。

 もしも彼がその頃から一人の女性を探しはじめて、現世において結ばれたのだとしたらこれは純愛という言葉で表すほかないではないか。間違っていたのは僕の方だった。醜い嫉妬で目を曇らせていた。

 やっと目が覚めました。