うんざりブログ

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靴ひも

 

 あらためて自分の身体というものを考えてみるとよくできているものだと思う。頭からつま先にいたるまで細かな血管が張り巡らされ、決して滞ることなく血液が循環し続けている。もちろんこれは僕たちがこんこんと眠りこけている間であってもである。もしもこの流れが止まってしまえば身体はどんどんと腐ってしまうし、それが脳のような重大な器官であれば、すぐに死んでしまうことになる。

 たとえ天下に悪名轟かすプータローだとしても、その身体の内では絶え間なく様々な仕事が行われており、とてもその肉体を指して「怠け者」などとは言えないのかもしれない。今日も明日も生きていく皆さんは少しくらい自分のことを褒めてみてもいいだろう。

 しかし、僕たちは誰でも常に自分の身体と心を完全にコントロールできるわけではない。『自分』というものがいったいいくつの部品から成り、それを寸分の狂いもなく精密に動かさなくてはならないことを考えたらむしろ当然のことであると言える。アポロ11号が人類を月に連れて行ってから五十余年。科学技術はさらなる発展を続けているが、そんな時代においても、人間の動きはとてもロボットなどでは再現できないのだ。僕たちの身体や心というのはそれほどまでに複雑怪奇に極まっている。

 だから、ふとした弾みで、いつも無意識に行っている動作に微妙なずれが生じて奇妙な結果になってしまうことは日常生活において誰しもが経験していることだろう。たとえば、誤字を訂正しようとして再び同じ書き間違いをしたり、普通に食事しているだけで口の中を噛んでしまったり、ただそれまでと同じように足を進めればいいのに何とはなしに歩幅が崩れてしまったりすることが。

 ひとつの歩幅のずれは全身に微妙な影響を及ぼす。次の足が上手く対応できずに再び乱れてしまえば転倒の可能性もある。首尾よく立て直して自然な歩行を取り戻したとしても、足元を見てみれば片方の靴のひもがほどけていたりする。可憐なリボンがあったはずの場所には、酔いつぶれて玄関で昏倒しているかのごときグッタリとした二本の細長い布が転がっている。とはいえ靴ひもとはそんなことでもなければ簡単には緩まないものだ。ちょうちょ結びなどと可愛らしい呼び方をしても、なかなかどうして堅固なものではないか。

 ポケットに入れておいたイヤホンがいつの間にか絡まりあっている。その奇妙な形相は、白い円筒状の台座の上に飾っておけば意味不明な現代アートのように見えなくもない。幾重にも交差し絡まる二本の線は、まるでクリストファーノーランの映画のように複雑で、もちろんひとりでに解消したりなどしない。紐とは結ばれやすく、解けにくいものだということがわかった。これは宇宙を支配するエントロピーの法則から考えても明らかだった。物事は次第に乱雑で無秩序で安定な状態へと変化するのだ。

 ところで、靴ひもは一度でもほどけると途端にほどけやすくなる気がしないだろうか。それはまるで靴ひも自身が『ほどけ』の経験をきっかけとして、ほどけるという行為を思い出しかのようである。しばらくぶりに結びなおしたはずの紐が、数刻も経たないうちにまたばらばらになってしまっているということは珍しくない。その後も何度か同じことを繰り返して、やがてすっかりと飽きてしまったのか、再び靴ひもは長い眠りにつく。

 靴の紐を一人で結べるようになったのはたしか小学生になったばかりの頃だ。はじめは勝手がわからずに失敗してしまったが、何度かの挑戦を続けて綺麗なちょうちょを作れるようになった。僕たちの人生も靴ひものように、結んではほどけ、ほどけては結びを、繰り返す。なんだか失敗続きの日々があり、またその反対の時もある。それはきっと『思い出している』状態で、やがては平生に戻っていく。

 結び目を、しっかり、ほどけないように、かつて教わった言葉を反芻するように呟く。明日を生きる人々は立派だ。頸動脈への強烈な圧迫により脳への血液の供給はまもなく止まり、やがて僕に安定が訪れるだろう。