うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

買い物カートを押す老婆・反ワクチン・そして生命の螺旋

 

 

ワクチンやめますか?それとも人間やめますか?

 新型コロナウイルスに関しては当初から現在に至るまで世界中で数多くの疑念が生まれ続けている。マスクの有効性について、またマスク社会が当然のように形成されていることについて、不審そして反発がある。COVID-19も所詮ただの流行り風邪に過ぎないという意見もある。実際に罹患しても症状の出ない人も珍しくないという。

 世界の日常を変えてしまったこの由々しき問題が人為的に作り上げられた陰謀だという説すら囁かれているではないか。そしてワクチンに関してもやはり同様の怪しげな噂がある。ワクチンを接種することによって遺伝子が書き換えられてしまうという。それでもあなたはワクチン打ちますか?

 もちろんこれらすべてを無条件に首肯するわけではない。眉唾物の話も随分とある。我々の置かれている状況をすべてくだらぬ茶番と断じてしまうのは、これまでに失ったすべてのものに対して十分すぎる冒涜だ。しかしながらこれまでに世界が分断されているのを未だかつて見たことがあるだろうか?

 正しさは数の多寡によって決まるわけではない(つまり最大勢力である“一般”も正しいとは限らない)が、“少数派”の意見を気狂いの妄想として片付けてしまうには今回はあまりにその数が多すぎる。
 あなたもたしかにコロナ禍の出来事についての疑問を目に、耳に、したことがあるはずだ。それについてたった一度でも自分の頭で考えてみたことはあるだろうか。我々は世界というものを無意識に信頼しすぎてはいないだろうか。あなたの抱える常識も、当然とされる前提も、すべて都合よく操作されているのだとしたら?

 思考停止で舌をダラリと垂らしてよだれで顎を濡らし喜び勇みながらワクチン接種に向かうさまはまるで犬、政府や組織の従順な犬のようである。もしくは豚だ。考えることをやめて都合のいい情報だけを信じるのは醜く太り肥えた豚だ。不満足な人間から満足した豚へ。こうして人間をやめていく。

 ワクチン接種により私達は人間たる矜持を捨てて尊厳の欠片も持たない野蛮な畜生へと成り下がってしまうのだ。

 

畜生と哲学的ゾンビユートピア

 ワクチンを接種することにより遺伝子が組み替えられてしまうという。DNAの書き換えによる自己の喪失。個々の人格などはあっというまに霧散し、後にはただ生物としてのヒトだけが残される。数百の骨に臓器と筋肉、それを包む全身の皮膚――人間の形をしたそれに画一的な“望ましい”人格が再構成される。生まれ変わりには冷徹な死が先立つ。

 新たな時代の人々は平凡であることを望み、特別であることを嫌う。多数派に所属しているという事実が彼らを安心させ、異なる考え方を持つ者が恐れをもたらす。そして恐怖は常に憎悪を伴っている。少数の異端者を排斥する動きは多数決に従って正当化され、どんなに残酷な手段であっても肯定される。なぜならばそれこそが我々の社会における正義なのだから。この考えは杞憂だろうか?しかしワクチンを接種することが実質的に強要されている現実がいまこの瞬間に存在しているではないか。反ワクチンは、反マスクは遠ざけられ、やがて攻撃の対象へと変わってしまう。

 国家への信奉は大きな集団に所属するための最も効果的な手段だ。彼らはその生活の全てを管理されることに疑いを持たず、むしろ大きな安堵を覚えることだろう。個人としての人格を捨てて、巨大な組織の一部となることが彼らの幸福の最大の到達点なのである。

 我々などは国家を動かす小さな歯車の一つに過ぎない。歯車は与えられた役割をどこまでも忠実にこなす。そもそも周囲と連動している彼らには自分だけが異なる動きを行う自由などない。ひとたび回りだしてしまえばそれがどんな結果を生み出すことになろうとも自らの意思で止まることはない。たとえば日常の平和を脅かす外敵に対して攻撃を加えることもあるだろう。しかしそれも完璧に遂行してみせる。無慈悲に。冷酷に。

 そして歯車は換えが効く。動かなくなれば違う部品と交換すればよいのだ。そして国家は動き続ける。我々の人間性を代償にして。ワクチン接種により体内を循環していたはずの血液はすっかりその熱を失ってしまう。ああ……

 

最後の希望

 しかし世界はまだ、人間はまだ完全に敗北したわけではない。わずかながらも圧倒的な社会的潮流に逆らい死にもの狂いで藻掻き続けている者たちがいる。彼らはいちはやくワクチン接種による危険性に気がついたのだ!

 遺伝子組み換えにおける体質の変化の代表的なものに身体の磁石化がある。なんと恐ろしいことだろうか。実際に胸部に金属製のスプーンを貼り付けてみせた人もいる。手を離れたその物体は曝け出された皮膚にしっとりと吸い付き、従うべき地球の引力による落下を拒否していた。

 たしかに金属は人間の生活を豊かにした。しかしそれと同時に金属と人類の歴史は常に血塗られてきたこともまた事実だ。生み出された多くの武器によって数えきれないほどの尊い生命が奪われてきた。我々はその強大な力を誇示せずにはいられなかったのである。人間の理性を破綻させるような抗いようのない魔法的な引力がそこには存在しており、それはこの二十一世紀においても衰えることを知らない。

 普段は温厚な人物が車を運転するときに限って凶暴な一面を覗かせるという話は珍しくない。巨大な鉄の塊はやがて自らの身体へと溶け込み、一方で精神はそれまでの肉体を一瞬にして破壊し得る速度と質量を持ったものへと延展、自らの領域を拡大する。

 これはより身近な、つまりより肉体的な場面でも見ることができる。買い物カートを押す老婆がその代表だ。彼女たちは、その脆弱な肉体に対して、他者への攻撃性は非常に強いものがある。この場合も、やはり精神は金属的な肉体へと延展を見せており、すなわち金属製の車輪駆動のカゴは肉体の一部と化しているのだ。その不釣り合いに強靭な新たな肉体は自らの領域を誇示しており、進行方向を塞いでいる他者を存分に威圧し、直接的な接触によって攻撃することもある。もちろんこれらはすべて彼女たちの本来の意思とは無関係に行われたものである。肉体の金属化の孕む不可避的な副作用なのだ。

 このように実は我々は日常の中ですでに肉体の金属化を経験していたのである。そして理性の喪失を実感し、心の奥底に潜む攻撃的な意識を垣間見た。賢明な人々、つまりワクチン接種に反対する者たちは、このようにして先見的な不信を抱いていたというわけである。

 もちろん肉体の金属化とは、最終的には人間がロボットそのものになってしまうことを意味している。様々な側面から我々は人間性の喪失の危機に面している。その一つは前述の通りである。

 はたして我々に希望は残されているのか?残念ながら可能性は極めて少ないのかもしれない。しかしながら我々は人間として、はるか昔からその生命のバトンを繋いできた。こんな時代だからこそ、我々は真の意味で生きなければならないのではないか。野蛮な家畜としてでも、冷酷な機械としてでもなく、心ある人間としてその生を全うし、次の世代の生命を灯さねばならないのだ。

 政府の欺瞞に騙されてはならない。ワクチンの接種などしてはならない。命を紡げ、命を燃やせ、あなたの生殖器には、人類の未来が、無限の可能性が広がっている!立ち上がれ!屹立させろ!ワクワクチンチン!ああ!