うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

君はもう幼くない僕を推さない

 

 

これが浪人か、さらばもう一度

 いよいよ三十路を迎えようとしている。

 ちょうど十年前。僕はいまと同じように自宅に引きこもってブログを書いていた。彼が大人びていたのか、僕が成長していないのか、わからない。たぶん、知る必要はない。

 僕は浪人生を名乗り受験ブログを書いていた。実際にはただの日記ブログで、実際にはただのニートだった。勉強の記録を建前に、面白いと思ったことを書いていた。勉強記録はほとんど嘘だった。

 ただの浪人生のブログにしては読まれたほうじゃないかと思う。もちろんそれは比較的という話であって、比較先は任意に設定している。たとえば季刊の学校便りのPTA代表の挨拶とかソシャゲの登録時に表示されるプライバシーポリシーなどがそれだ。それらと比較すれば僕の拙文の方がもう少し世間的な興味を惹いたというわけである。

 特に人気のあったのは『うんこぶりぶり』というキーワードの登場する記事だった。とにかくこの言葉は読者を興奮させる何かがあり、イマイチ記事にインパクトが足りないなと感じればそれを挿入するだけの簡単な作業だった。一人暮らしの男の料理におけるウェイパーと同じだけのお手軽な支配力があった。

 つまり、これは改めて考えた結果たったいま判明した客観的な事実らしいのだが、僕のブログはうんこに支えられていたのだ。

 ……十年前の僕は実年齢と比較して子供じみていた。それは認めよう。どうやら少しは成長できたらしい。しかし未だにだらだらとブログを書いている。そして当時より読者は少ない。2022年。

 

『推し』について

推しという概念が理解できない

 ここでいう理解とは認識の話ではない。世の中には『推し』という文化が存在していることは承知しており、その具体的な内容についても把握しているつもりだ。しかし僕はその文化に対して共感を覚えてはいない。そういう意味だ。勘違いしないでほしいのは決して否定的な捉え方をしているわけではないということだ。

 あえてわかりにくく例えてみよう。僕は酒類を好んでは飲まず、特にビールに関しては苦くてとても不味いと思っている。しかしそれを愛飲している人や、彼らが美味いと感じていることを否定はしない。感性というのは多種多様で誰かにとっての至極の一杯が、別の誰かにとっては泡立ちの良い小便に過ぎないということは当然あり得る話なのだ。

 もしくは、可愛らしい女子中学生を見て、彼女が同年代の男子に人気のあることは容易に想像できても実際に自分自身が心惹かれたりしないのと同じだ。十五年も前なら告白はしないまでも縦笛の一舐めくらいはという気持ちになるかもしれないが、時間の隔たりによって同一人物ですら同質の感情を抱くことができなくなる。

 以上、不適切な例えによる不適当な例え。

 とにかく僕は推さないが、他の誰かが推すことを、否定はしない。

 

推しという言葉について

 これは余談的な話。

 『推し』というのは要するに特別な贔屓ということだろう。従来の一般的な言葉で言い換えれば『熱心なファン』になるのかもしれない。正確には『推し』は『ファン(推す人)の対象』であり『推し』と『ファン』は可換の言葉ではないので、以下の話では『ファン(の対象)』と読み替えてほしい。

 『推し』と『ファン』という言葉。この二つは大雑把に分類してしまえば類似の言葉かもしれないが、それぞれが内包しているニュアンスには多少の違いがあるように感じる。これから述べるのは極めて曖昧な感覚に頼り切った僕の超主観的な解釈であることに留意したい。

 近年では『ファン』という言葉に代わって、もしくは同等程度に『推し』が広く市民権を得ているように感じられる。その他の言葉と同様にネットのオタクを中心に用いられていた言葉がいつのまにか一般にも浸透した形だ。(たぶん)

 『推し』には『推す』という動詞系があり、『推し』を応援すること、他人に布教すること、そして『推し』に向ける強い感情の高まりを簡潔に言い表すことができる。さらに『推し』というのは『推す対象』なわけだが、この言葉は対象の属性に関わらず用いることができる。女性アイドル、アニメのキャラクター、憧れのスポーツ選手、無生物、はては概念などにも適用される。そして『推す』程度の大小にも影響されない。

 「一人よがり今井さんは私にとってファンというほどではないものの気になっており恋愛感情は皆無でありながら異性というところに意味があるそこそこ好きな存在です」というよりも「一人よがり今井を最近推してます」という方が色々と簡単だ。

 『推す』は一般的に使われる中では最小級のわずか二文字の動詞だが、そのシンプルさがかえって複雑な胸中を想像させるのではないか。間抜けなほどの柔らかな響きは、対象への強い愛着を感じさせる。比較すると『ファン』という言葉はやや客観的で対象への身近さが足りない。

 こうしてみんな誰かを『推し』ていく。

 

君はもう幼くない僕を推さない

 僕はこれまで何かを推したことがない。少なくとも他人に誇れるほど、何かに対して入れ込んだことがない。好きなアーティストや作家などはいる。もちろんそれは作品ありきの好きなのだが、作者自体への興味もある。ただ彼らを推そうなどという気持ちはない。結婚しようが、罪を犯そうが、Twitterで政治的発言をしようが、特に関心がない。

 アイドルなんかはもってのほかだ。可愛い、ただそれだけだ。僕が興味を持ったところで、それはどこまでも一方通行な愛情に過ぎない。そもそも僕らは彼や彼女の本当の人間性なんて知りようがないじゃないか。表でどれだけ愛嬌を振りまいたって、裏で何をしているかわからない。他人には見せられないようなことだってしているかもしれない。

 でもそれで当然だとも思う。アイドルだって人間なのだから、勝手に崇拝して、自分の理想と違っていたからって失望するほうが間違っている。どんなに優れた人間だって間違いを犯す。時には他人を傷つけることだってある。女神のように可愛らしい女の子だってトイレに入ればどうせ肛門を大きく開いて排便しているんだ。僕と同じようにうんこをしている。ああ、なんて汚らわしい!クソ女!

 

 やっぱりそうだ。僕はうんこの力を信じている。うんこが僕を救ってくれる。僕はいつまでもうんこだけを推している。