うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

少食そうだと言われて勃起した

 

「今井くんって少食そうだよね」

 最近発売になったインスタント食品をダンボールから取り出しながら彼女はそう言った。彼女というのは僕のバイト先の同僚の女性で、僕の母親よりもわずかに若い程度のお姉さまだった。もちろん人妻だ。

 その行動と、言葉を関連付けると、こういうジャンクな食べ物は好まないでしょう、という意味も含んでいるのだろうと思った。

「わかる~お肉とか全然食べないでしょ」

 近くにいた別の女性が僕より先に反応する。この女性もやはり、僕の隣に並べば親子に見えるくらいの年齢差があった。つまるところ僕は歳上の女性に囲まれながら、糊口を凌ぐために仕事をしていた。人生に与えられた限りある時間を低効率でお金に変換するだけのつまらない仕事だ。

「野菜ばっかり食べてそうだよね。シャキシャキの」

 トートロジーだ。肉を食べないことと、野菜ばかり食べていることはほとんど同義語に等しい(もちろん厳密には肉以外の食材がすべて野菜に分類されるわけではない)。彼女は巧みなレトリックでこの会話に文学的な彩りを添えようとしている。

 擬音を用いて瑞々しさに拘るのは、僕が周囲と比較すれば若年であるということに無関係ではないのだろう。フレッシュなイメージの強調は何を意味しているのだろうか。

「あははは」

 二人で声をあげて笑う。

 僕と言えば終始へらへらと笑っていた。笑顔を見せて同意の相槌さえ忘れなければ大抵の会話は円滑に進んでいく。特に自分に対する言及などは寛容(かんよう)な態度を見せることが肝要(かんよう)だった。

「まあでも普通に色々と食べますよ。へへへ」

 返答について頭の内側では様々な言葉が浮かんでいた。しかし結局のところ、僕の口をついて出たのはあまりに無難な台詞だった。決して驚くなかれ、社会で生きる僕は実は万事この調子なのだった。

 むしろこれでも立派に会話を成立させているほうだ。「そうですね」という完全な首肯によりあっさりと結論を纏め上げることもできたはずだった。そうであれば相手方は「やっぱりね」と自分の予想が正しかったことに満足して、話題への興味を失うかもしれない。

 しかし実際に僕が起こしたのは軽度の否定という反応だった。これは興味に目を輝かせている同僚に、新たな疑問を生み出し、さらなる会話の糸口を与えることになる。これが生きた会話でなければ何だというんだ!

 蒔かれた論争の種はまもなく芽を出し、木の枝が分岐するように多様な広がりを見せて、再び決断を迫る。それは僕にとって価値のあるものではなかったが、野生に立ち返る強さを持たない、社会に隷属している動物が等しく背負うべき定めだと理解していた。

 一方で、この行為は僕にとって必要なものでもあった。言うなればこれは牽制、個人的な領分には深く踏み込ませないという意志の表明なのだ。そうでなければ僕の仕事とは切り離している普段の生活やプライベートな情報まで土足で踏み荒らされてしまうかもしれない。

 はては「今井くんって恋人はいるの?」などと始まって「恋愛も消極的なの?」「エッチなことには興味あるの?」とキュレーションサイトのように疑問符が熱を帯び「最近旦那とはご無沙汰で……」と唐突な桃色の自分語りがはじまらないとも限らない。

 とても危うい事態だ。

 僕の身長/体重はだいたい180cm/70kg。ヤード・ポンド法ならば5フィート11インチ/154ポンド。江戸時代であればだいたい六尺/十九貫。当時としては目を瞠るほどの大男だ。現代日本においても平均身長を大きく上回っている。

 それならば「いっぱい食べそうだね」が適切な印象のはずじゃないか。もちろん身長と食事量は必ずしも比例しないが、僕の場合は体格も相応にある。少なくとも風が吹けば飛ばされるというように極端に細くはない。原因はやはり内面にあるのだろうか。

 前述の通り、社会における僕は(ここでの振る舞いと比較すると)まるで牙を抜かれた獣のように大人しいものなのだ。

 それどころかただの一度も牙など生えたことはない。艷やかな唇をめくりあげれば可愛らしい乳歯がその姿を覗かせているに違いない――これが社会に投影された僕の虚像であり、つまり紛れもない実像なのだった。

 三十代が間近に迫りつつも一向に定職を求める気配を見せず、会話をしても終始無難でユーモアの欠片も無い。碌な趣味すら持っておらず、ましてや将来の夢や希望などあるはずもない。酒や女やギャンブルにハマり堕落的な生活を送ることすらせず、破滅的な人生の期待もできない。いったい生きてて何が楽しいのだろうか?笑うことはあるのだろうか?怒ることは?泣くことは?(再びキュレーションサイトの疑問符)

 だいたいこのように評価されているのであれば冒頭の言葉も頷ける。大部分は無気力がもたらした結果なのだけれど、見方によっては世俗的な執着を捨てた仙人のようだと捉えられなくもない。「霞を食べてそう」などと言われなかっただけマシなのかもしれない。

 しかしながら実際には優良健康児である若者に向かって少食そうという評価はやっぱり失礼じゃないか?少なくとも僕は嬉しくなかった。僕を評した言葉はそのほとんどが正しくない。

 僕は、世俗的な雑念に塗れまくっていて、色恋に対しては積極的な姿勢だし、エッチなことには多分の興味があり、常に劣情を催している。草食で少食というのは全くの誤りで、大飯食らいの肉食、もしくは何でもござれの雑食で、ジャンクな食べ物も大好物だ。人の食べかけだって平気で味わって見せる。そしてシャキシャキとした若いものよりも、熟したものの方が好みなのだ!

(最近旦那とはご無沙汰で……)

 投げかけられるはずだった言葉がぐるぐると頭の中を回り続けている……