うんざりブログ

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僕は時間には勃起しない

 

 祇園精舎の鐘の声が聴こえる。ゆく河の流れは絶えない。

 世の中は常に変化している。目まぐるしく動いている。僕だけを置き去りにしている。そうでもしなければ明日を迎えることができないと言わんばかりに。それこそが明日を迎えることだと言わんばかりに。

 自分だけが昨日に取り残されている、などとありふれた社会的孤立を肴に自己憐憫に浸ってみたところで、現実はずっと無慈悲で平等ではないか。万物が時間の海の上で揺さぶられているというのに、どうして惨めなお前だけがそこから逃れられようと言うのか。自らの矮小なこと、対象の巨大なこと、そのスケールのあまりの違いに不感症になっているだけじゃないのか。

 通常、僕たちにとって虫螻などはほとんど概念に過ぎず、個はおろか種であってもその性質がすっかり失われている(この場合もちろん虫螻にとっても僕たちは概念に過ぎない)。僕たちの感度は指向性を有しており、森羅万象すべてに反応して常に海綿体への血流が増加するわけではない。それは実際の陰茎と同様に、多くの場合、自らの属との類似もしくは自らとの近接さに比例して屹立する。すなわちドラゴンと車の交尾にやたらに興奮などしないように。

 ところでいまこの瞬間にも僕が立っている地表面――つまり僕は地に足の着いた立派な生活を送っている!――はすごい速さで動いている。地球の自転は一秒間におおよそ460メートルという速さで行われて、僕たちが朝のバトンリレーを行うことを可能にする。実際には、自転速度は緯度に依存しているため秒速380メートルくらいになるだろうが(僕は北緯35°付近に住んでいる)、その運動を僕は認識することができるだろうか?

 地球の自転、すなわち、空に燦然と輝く太陽の移動とは、時間の経過を示す最たるものじゃないか。自転への感度の低さ!それは僕の時間に対するインポテンツの説明として必要かつ十分なものだろう。たしかに全体の一部として遙かなる溟海を揺蕩いながらもそれに気がつくことはない。地動説を理解しない淀んだ脳漿はガリレオ以前の時代に取り残されている。色々な意味で僕の時計の針は止まってしまっている。

 積み重ねた退屈な日常の先には不可避の終焉が待っている。

 

 ジャネーの法則によれば、体感的には二十歳を過ぎたあたりで人生は折り返しを迎えているという。年月を多く体験するほど、単位年月は相対的に小さなものとなり、加速度的に時間は過ぎ去っていく。人生はどんどんと短くなっていく。

 二十歳!当時ピチピチの浪人生だった僕は家に引きこもっていた。寝る食べるという生物としての基本的な行動サイクルの合間にブログを書くなどしていた(勉強は?)。本格的に社会に出るための準備的段階、羽化の気配も見えない脆弱な蛹だった頃にはもうすでに人生の陽が沈み始めていたなんて!

 僕たちの人生が、給料日に向かう食事のようにだんだんと切り詰められていくものであるならば、それに逆らうように厳しさを課していく社会構造の方が間違っているのではないか。日々がだんだんと短くなっていくのならば、相対的な摩耗こそ許容すれど絶対的な余暇の時間こそ確保されるべきではないか。

(十歳!当時の僕には無限の可能性があった。それは単に現状の僕が先細りの道で窮境の立場にあり、足跡を遡ればいくつかの岐路を経てきたという意味ではない。たとえばそれは性的にすら未分化な状態であった。喉頭の隆起は穏やかであり発せられる声は中性的な響きを持つ、全身の筋肉は靭やかな強さを有するものの身体つきは丸く柔らかさを帯びている、体皮を覆う毛は柔らかくて薄い。なだらかな丘陵を思わせる恥骨は砂漠のように剥き出しであり、陰部は単に純粋な排泄の器官として存在しており、性的な匂いを持たない。身体的な特徴の大きな――まるで幼虫から成虫への変態のような――変化。いくらかの歳月の間に僕たちは生物学的神秘を経験している)

 十歳の僕、そして今。彼には僕の三倍の相対的時間が与えられている。健康優良児であった僕が毎日八時間の睡眠を行っていたとすれば、今の僕が同等の健康を獲得するには一日中眠りに就かなくてはならない!しかし実際には社会的活動に圧迫されるようにして僕たちは睡眠時間をはじめとする余暇の時間を失っている。……余暇?睡眠は生命の維持に必要な行為であり確保されて然るべきではないか。僕たちは文字通り仕事その他雑務に忙殺されようとしている。

 科学技術の発達は僕たちの生活を豊かにした。おじいさんは寝転がりながら暖房を作動させるためのリモコンを手に取り、おばあさんはドラム式洗濯機で衣服を綺麗にする。そのために大きな桃は誰にも発見されることなくどんぶらこと太平洋まで流れていき、鬼たちの存在はSNSであっという間に話題となり最新兵器で武装した軍隊によって駆逐されました。めでたし、めでたし。

 むかしむかし、と比較すれば生活の安全や自由は保障されているように感じる。少なくとも飢えて死ぬような心配はしなくて済んでいる。それでも僕たちは未だに人生の多くの時間を望まない仕事に費やすことを求められている。人生の真の目的たり得ない非創造的な仕事に従事することを。そこでは人々はいたずらに消耗するばかりで、自己実現などは到底果たされはしない。

 主観的な単位時間が相対的に小さくなっていくこと、これは単純に人生を長く過ごすことだけが原因ではないはずだ。幼い頃は毎日が新鮮な体験に溢れており、日々を濃密に過ごすことができる。しかし成長するにつれて無味乾燥とした繰り返しが行われることとなり、記憶に刻まれる時間が薄れていく。日常を退屈な仕事で塗り潰していくことは精神的肉体的な摩耗を引き起こすだけでなく、生命そのものを加速度的に終焉へと向かわせているのだ。

 

 ところで、ルネサンスを迎えない僕の話だ。日々を積み重ねない僕は、昨日に取り残されている僕は、人生における経験をまだたくさん残している。つまり、狂ってしまった時計の針の速度を正常に戻す余地があるということだ。たしかに僕自身もまた現在の社会構造の中心に位置する強烈な引力によって地べたを這いずる奴隷となり、かつて存在していた余暇の時間を失いつつはあるのだが。(重力と時間の関係!これは当然のことながら相対性理論によって導かれる……自明の理……)それでも自らの人生を非創造的な社会従事業務によって完全には奪われていない。まさにこのブログの記事制作という行為が自己実現の一部であり、生命の時計の針がむやみに刻まれるのを阻止している……

 そういえばこのあいだ30歳の誕生日を迎えた。大学を卒業するに際して就職をしない決断をしたとき、30歳までに成功を得ていなければ蹴飛ばした線路の上に戻ろうと考えていた。(たとえそれが以前よりも厳しい道のりであるとはわかっていても。死体を発見するような冒険が待っていると信じて。もしくは僕自身がその死体になるまで)さて、現状はどうだろうか?僕はブログを書く。ゲーム実況をする。それこそが現状の僕の人生を唯一肯定しうる材料であり、すべての過去を肯定する手段なのだ。

 今回の話題については僕の誕生日である6月の段階で記事にしようと思っていた。ところがすっかり夏の暑さも引いてしまっている!でも仕方ないじゃないか。ジャネーの法則によれば人間は歳をとるほど毎日が早く過ぎ去ってしまうらしいのだから。