うんざりブログ

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僕の食生活は柔らかな卵に支配されている

 

 たしかに卵は多くの料理で使われている。和食、洋食、中華――ネット検索無しですらすらと提示できるのはこのあたりが限界だ。しかしながら僕が蓄積している知識だけでは表すことのできないその他あらゆる料理ジャンルでも幅広く用いられているのではないかと思う。デザートのレシピ本を開けばそれが書かれていないページを見つけるほうが難しいかもしれない。全卵に加えて卵黄や卵白だけを要求するものまである。とんだ強欲ぶりじゃないか。

 GAFAが現代人の生活に密接に関わっていて多くの人がその影響下にあるように、僕の食生活――ありきたりな食材をゴチャ混ぜに加熱したものを献立と呼べるのであれば――それらは常に卵の入り込む余地を与えられている。日本食のほとんどが醤油とみりんと酒を合わせて味付けをするように、大抵の料理は卵でとじてしまえば美味しく食べられてしまう。

 卵の汎用性、あるいは他の食材との親和性の高さについての話。2015年のパズドラにおけるラードラのような抜群の安定感、もしくはポケモンユナイトで上レーンにルカリオがいる安心感。もはや初手7六歩と同じように定跡と言ってもいいほどだ。1993年の伊藤智仁、1995年の平井正史、古くは1961年の権藤博のようにほとんど酷使と呼べるような使われ方をしている。いや雨が降っても僕たちは卵を食べる。僕たちの食生活は卵に支えられている。

 ここまでは一般的な話だ。僕たち日本人の食生活には卵という食材が不可欠で、多くの料理に用いられている。紛れもない事実だ。しかしそれはあくまで僕たちの需要として生まれた結果であって、決して卵の浸透ありきで人為的に与えられた状況ではないはずだ。卵が先か、鶏が先か、この場合は答えははっきりとしている。食生活の支配などというおどろおどろしい言葉は適切ではない。

 ただし僕個人についてとなると話は別だ。僕の食生活は、生活は、人生は、卵に支配されている。幸福のために卵を選んでいるのか、卵を選ぶことでしか幸福を感じられないのか、僕にはわからない。本当にわからないんだ。

 

 たしか小学一年生の時、はじめて半熟の目玉焼きを食べた。眠い目を擦りながら食卓に着くと、白い平皿の上にはマーガリンのてらてらと光るトーストといつもより黄身の赤みが濃い目玉焼きがあった。

「きょうは半熟にしたから」

 母が言う。どうやら僕の家ではそれまで目玉焼きといえば固焼きしか出なかったらしい。らしい、と言うのは僕自身にもそれ以前の確かな記憶がないからだ。

 そしてこの日、めでたく物心がつく。自我の獲得はいわば精神の誕生だ。物理的な誕生からは六年ほど経過していたが、本当の意味での僕はこのとき生まれた。卵によって。つまり僕はカモノハシやハリモグラと同じ卵生の哺乳類なのだ。これが僕の人生にどれほどの影響を与えたか想像に難くないはずだ。

 半透明の薄い白身の膜から溢れるドロリとした黄身を、若干の気味の悪さを覚えながらも、それを遥かに上回る衝動に駆られて、パンとともに口に運んだ瞬間の衝撃をいまでも覚えている。ビッグバン。僕という宇宙の誕生だ。

 そして卵というものに対する認識が以後永遠に変わってしまった。僕の内部における食のパラダイムシフトの発生だった。それ以前の記憶が覚束なくてもそこで何かが変質したことを感覚的に理解している。違法な薬物を使用したことはなくても、全身の細胞一つ一つが反応する感覚を僕は知っている。

 同様の経験は、ミートソースばかり食べていたがカルボナーラにはじめてチャレンジした時、缶コーヒーしか知らなかったがはじめて豆から挽いたコーヒーを飲んだ時、チキンナゲットではじめて黄色いソースを頼んだ時などにも発生してきた。

 

 それから僕の食生活は柔らかな卵に支配されている。固焼きの目玉焼きは、それ自体には何の変化も起こっていないのに、その価値をすっかり失っていた。僕が目玉焼きを要求する時それは常に黄身が固まっていないものを指し示した。

 卵による人生観への侵食は、卵かけごはんとの邂逅によりいっそう度合いを強めていた。生卵――卵黄の濃厚な味わいと卵白のヌルヌルとした食感が料理の質を何倍にも押し上げる気がした。毎食のように食卓では卵の殻が割れる音が鳴り響いた。

 しかしながら僕の中で燃え盛る欲求は常に一定だったというわけではない。いかに強い執心であってもその初期衝動を超えることのできないピークとしてやはり緩やかにでも下降線を辿っていくものなのだ。これは見方を変えれば、柔らかな卵という概念が僕の中で完全に定着したということでもあった。一過性の激しく盛り上がるブームを超えて、安定した選択肢として与えられた。こうしてだんだんと卵への異常な愛情は薄れていく。

 それでも思い返せば僕は、いや僕だけでなく世間が、柔らかな卵に魅了されてきた。僕はそれを知っている(この頃には世間というものを冷静に見れるようになっていた)。ファミレスにいけば半熟卵の乗ったパスタやドリアを、牛丼屋にいけば生卵を、ラーメン屋にいけば黒ギャルの尻のような味の染みたゆで卵を、つい注文してしまうだろう。トロトロというオノマトペが僕たちの冷静な判断力を狂わせている。まるで巨大な権威のように他の選択肢の前に立ちはだかっている。

 

 このあいだ、濃い割下で煮込んだうどんを生卵に絡ませてみた。幼かったあの頃の衝撃をかすかに思い出した。それから毎日のようにうどんと生卵を合わせている。呪縛は簡単には消えない。

 ふと気がついた。僕は卵を食べるために、他の食材を食べているのかもしれないということを。さらに気がつく。卵はそれ自体ほとんど味がしないということを。

 

(美味しくなんてないんじゃないのか)

 

 それでも僕は逃れられない。卵を絡ませて食べるということが『美味しい』に直結しているという幻想から。柔らかな卵の支配から。

 オチはない。だって僕は自分の殻に閉じこもった、未熟で半人前の人間だから。

『自身を構成する大切な何かを失うと人は鼻水みたいな存在になっちゃうの。そう、まるで白身みたいにね』

 イタズラっぽい表情でキミが笑った。