うんざりブログ

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 昼下がりの教室。開いた窓に吹き込む柔らかな風がベージュ色のカーテンをふわりと揺らしていて、そこから差し込む太陽の光が綺麗に並べられた机のひとつに暖かな影を作っている。クラスの男子のほとんどはグラウンドでサッカーをしていた。いつもそうだった。少し前にガキ大将がボールを抱えながら大勢を引き連れていくのを見送ったばかりだ。実は先週までは僕も参加していた。足の速さに自信のある僕は前線で攻めることが多かった。

 でもいまは自分の席で本を読んでいる。学級文庫に置いてある『世界偉人列伝』がとても面白いのだ。世界中の、顕著な功績を残した人々の生涯について書かれた本だった。彼らの素晴らしさはその類まれなる才能だけでなく、逆境でも決して諦めることのない強い心、そして正しく生きることのできるその人格にあった。

 僕もこんな風に生きたい。後世に名前を残すような成功を収めたいというわけではない。たとえ誰に認められることがなくても、自分自身に誇りを持てるような、そんな立派な人生を歩みたい。おおよそ洗脳に等しいような、何かに簡単に影響されてしまう浅はかな理性ではあったが、こうして正しい生き方を望んだ幼き僕の前にはたしかに無限の可能性が広がっていた。

 

 ピピピと音が鳴って、ほとんど無意識に音源の方に腕を伸ばす。目的はこの忌まわしい音を止めることなのだけれど、今日はどうにも上手く摑まえることができない。そのうち意識の方が追いついてきて、朝を迎えて、時計のアラームを消さなくてはいけないことを理解する。

 数刻前までたしかに小学生だったはずが、いつのまにか立派な社会人になっていた。現実だと思い込んでいた世界は急速に遠ざかっていき、まるではじめから何もなかったかのように無くなってしまった。今となってはもう覚えてすらいない小学生の僕の決心は、時間的にも、意識的にも、もはや隔絶されてしまっていた。立派な人間になりたいなどという思いは、社会に揉まれるうちに、いやきっともっとずっと前から、失われてしまっていた。

 別に、悪人になったわけじゃない。ルールを破ったりはしないし、困ってる人がいれば助けたいと思う。でも自分を犠牲にしてまで他人に尽くすことはできない。僕は普通の人だ。もしかしたら、世界を救う英雄になることも、大悪党になることも、あるかもしれない。でもきっと僕はそんな人をテレビのニュースで見ることになる、ただの平凡な人間だった。僕はいわゆる社畜だ。嫌いなものは満員電車と上司の怒鳴り声。でもそれをほとんど毎日経験しなければいけなかった。僕の人生は誰かに語るべき価値はないのかもしれない。それでも自分なりに懸命に生きていた。

 その日はひどい雨だった。家を出るときは少し晴れていたくらいなのに、電車が最寄りの駅から出るころには大粒の雨が勢いよく降っていた。不幸なことに傘を持っていなかった。折り畳みの傘をカバンの中に常備しておこうと思っていたはずだったのに。晴れ模様に浮かれ厄介事を後回しにした先週の自分を呪った。結局、会社にはずぶ濡れの状態で到着した。周りには同じような状態の人も数人いたが、仲間ができたからといって別に気が晴れることもなかった。上司には気が抜けていると怒られて、ついでに前日の仕事についても朝一番から怒られた。理不尽な内容だった。何から何まで理不尽だった。でもこれが僕の仕事なのだ。この理不尽に耐えることも仕事の一つだった。上司の虫の居所が悪かったのか、結局その日は、いつもの倍近く怒られることになった。

 帰りの時間になってもまだ雨は止んでいなかった。朝よりは少し小降りになっていた。電車に乗り込むと、運の良いことにいつもより空いているようだった。扉に近い場所を選んでつり革を握って待つ。やがて発車のベルが響いて、僕の身体は慣性を受けて、進行方向反対に倒れそうになる。僕からの圧力を受けた隣の男性が少し嫌そうな態度を見せた。僕のスーツが濡れていたからかもしれない。申し訳ないなと思うと同時に、仕方ないじゃないかという気持ちもあった。居心地の悪さを感じて、視線を車内の中吊り広告に向けた。その広告には週刊誌の記事の見出しが書かれていて、男性の欲情を誘うような刺激的なものもあった。正面の座席には女性が座っていた。綺麗な顔立ちをしていた。

 その夜、僕は久しぶりにお酒を飲んでいた。もともとあまりアルコールに強くない体質であったため積極的に飲むことはほとんどなかったが、その時はなんだかとても酔いたい気分だった。ストレスが溜まっていたのかもしれない。嫌なことを忘れさせてくれる、気持ちのいい晩酌だった。少し飲みすぎたことを除いては。

 繰り返しになるけれど、僕は普通の人間だ。でも普通の人間でも、普通の人間だからこそ、過ちを犯すことがある。誘惑というものは日常のあらゆるところに潜んでいて、常に僕たちの耳元で囁いているのだ。誰しもが、耳を塞いで、目を瞑って、まるでそんなもの存在しないとでも言うように無視するようにしているのだけれど、ふとした瞬間にそれを自覚してしまうことがある。そうなってしまうと却って誘惑の引力は強まるばかりで、懸命に振り払おうと努めるのをあざ笑うがごとく、呪いのように頭の中に張り付いてしまったりする。そうでなければもっと急進的に物事は進んで、僕たちが成長する中で身につけてきた社会性や、ただの肉体を人間たらしめている根源的な理性も、そのすべてを超えて、ただ一点の欲望が一瞬にして支配することもある。僕の場合は後者だった。

 思えば、僕たちは欲望と理性の狭間で揺らぎ続けながら、いつだって戦い続けてきた。それは常に望まれない勝利だったに違いない。いつだって後ろ髪を引かれる思いを残してきたのではなかっただろうか。そんな気持ちもやがて時間の経過とともに薄れていき、僕たちはとっくに理性の皮を被っていて、戦いなどなかったかのような顔をしてきた。

 そしてついに僕は敗北に選ばれてしまった。敗北というのは冷静になって後から気がついたことであって、その瞬間には選択をしたという自覚すらなかったのだ。僕の中にわずかに宿る社会性や理性や道徳などが、一応の葛藤を演じさせてはいたが、はたしてその戦いですらもはやめくるめく快楽への布石でしかなかったのだ。このままでは誘惑に溺れてしまう——かすかな意識の中で理解はしていたが、もはや僕には抗う術はなく、道を踏み外しかねないそんなギリギリの背徳感を楽しんですらいた。まだ戻れる、まだ戻れる、ここで戻らなくてはいけない、と虚しく唱え続ける理性を無視して僕はついに一線を越えていた。

 その欲求はとても強烈だった。他の何かでは到底代替することのできない、ひどく原始的で、粗野で、剥き出しで、凶暴な、快楽だった。僕の持ち合わせたちっぽけな尊厳など一瞬にして吹き飛ばしてしまった。僕は夢中で、その甘美で優雅な、生物としての根源に響くような欲望を味わい続けてい……ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ、しまった、寝坊だ。