うんざりブログ

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写真

 

「ずっと前から気になってたんだけど」

 テーブルを挟んで向こう側に座っている彼が口を開いた。どうやら私になにか言いたいことがあるらしい。遠慮気味の口調からは、随分と逡巡した様子が伺えた。

「なに?」

 わざと冷たく返事をしてみる。グレーのシャツを着ている私の小胆な恋人はやはりドキリと身を竦ませた。ここにきていっそう決心を鈍らせたに違いなかった。

「嘘だよ、怒ってないよ」

 ふふふと笑ってみせる。その言葉は彼への気遣いだったが、愉快な気分なのは本当だった。彼も白いマスクに隠れた唇をわずかに緩ませたみたいだ。疫病の流行以降、私達の生活も大きく変わっていた。口元を覆う布はその代表的なものの一つだった。
「じゃあ言うけど、お店の料理をカメラで撮影するでしょ?あれやめてほしい。そのあいだに料理も冷めちゃうよ」

 そんなことを気にしているとは意外だった。たしかに彼は、料理に限らず、写真を撮るという行為をほとんどしない。

「冷めるって言っても一分もかかってないよ。それにヒロくんはいつも先に食べ始めてるでしょ」

「いやまあそうなんだけど。料理の撮影ってみっともない気がしない?食事に向き合って楽しんでいないと言いますか」

 時々、敬語になるのは何かを話し合うときの彼の癖だ。

「楽しんでるからこそ記録したいんじゃないの」

「そうかなあ。誰かに見せたりとかそういう部分ばかりが先行してる気がするんだけど」

インスタ映えみたいな?」

「そうそう」

 これが彼にとっての核心だったのだろう。ようやく言いたいことを吐き出せたようで露骨にすっきりとした表情に変わっている。

「でも私SNSやってないよ」

「え、そうなの」

「登録だけしてるのはあるけどね。昔は友達の投稿を見たりしてたけど、最近はアプリ開くのも億劫でずっと放置してる」

「じゃあなんのために写真撮ってるの?」

「なんのためにって普通に思い出に残したいからだけど」

 お互いの質疑応答があまりに間抜けだったので思わず笑ってしまった。彼の方はそうは感じなかったようで新たに湧出した疑問を解消すべく必死に何かを考えているようだ。

「でも写真ってあんまり見返さないでしょ」

「うん。そうだね」

 彼の意見を首肯する態度に嬉しそうな顔をしている。勢いづいて「それなら……」とさらなる言葉を紡ぎかけたので、私も負けじと持論を展開してみる。

「でもね、それでいいと思うんだ。たとえ数年に一度しか見返さないとしてもそれで思い出を懐かしむことができるでしょ?懐かしむということは当時の感情を追体験するということだと思うの。もちろん同じ密度っていうわけにはいかないけどね」

 だから写真っていうのはその瞬間を詰め込んだタイムカプセルみたいなもの、と洒落た文句を言ってみる。

「私達の記憶は完璧ではないから、大切な物事でさえもだんだんとボンヤリ薄れていってしまう。やがて記憶が完全に失われてしまったら、ある意味では経験の消失とも取れるわけでしょ。それは少し寂しいことだと思うから、何気ない日常の出来事も思い返せるようにしたいの。それが大事な相手との記憶ならなおさら」

 ポケットからスマホを取り出してカメラロールを遡る。

「ほらこれなんてヒロくんがまだ大学生の時の写真だよ。私はこの時のことよく覚えてる。たまに写真をみるたびに思い出してるからね。私もその頃に戻れた気がして、その一瞬だけタイムスリップできるんだよ。すごいでしょ」

 彼にスマホを手渡す。

「うわ、懐かしいなあ。こんなに明るい髪色なんて今じゃ考えられないよなあ」

 その時、ちょうど料理が運ばれてきた。要求通りに、私は撮影することもせず、ナイフとフォークを握る。果たしてきょうの日の記憶は彼のカメラに残るのだろうか。当の本人はいまや夢中になって過去の写真を見ている。

 ここのラーメン美味しかったよなあ、途中でガソリンが切れて大変だった、たしかこの前日に骨折したばかりだったんだ、嬉しそうに思い出を語る彼を見て私も同じ気持ちになった。これからも素敵な人生を二人で積み重ねていければいいなと心から願った。
「この頃からマスクをしてるんだね。もう二年近くになるのか。 ……あれ、このお店ってたしか僕が全額支払いをしたんじゃなかった?そういえばまだ返してもらってないよ。ねえ?いや、あれ、いただきます、じゃなくて」