うんざりブログ

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セミ

 

 あれは小学六年生の夏休み、相も変わらずひどく暑い日のことだった。僕を一日のあいだずっと天から睨みつけていた太陽はとうとう西の彼方にその姿を隠してはいたが、最後の抵抗とばかりに空を橙色に染め上げ、気温こそ少しだけ下がったものの、辺りの空気はジメジメとする一方で却って過ごしづらさを覚えた。

 そういうわけだからお風呂上がりの僕が真っ先に向かったのは居間に置いてあるやや古びた扇風機の目の前に決まっていた。三段階ある風量スイッチのうち迷わず「強」を押すと、三枚の青い羽が勢いよく回転しはじめて綺麗な円を描いた。肌の表面に残る水分が乾いていくと同時に心地よさを感じる。この時は気化熱だなんだとは知らなかったけれど体感で理解していた。そのためにいつもきちんと身体を拭かないで脱衣所から出るようにしていたくらいだ。

 続いて僕は自分の部屋に向かい机の上に置いてある漫画雑誌を手に取った。月刊の分厚い少年誌で僕たち小学生男子から絶大な支持を得ていた。もちろん僕も毎月購読している。今日のプールの帰り道に近所の本屋で買ってきたのだ。雑誌の隣には夏休みの宿題が置いてある。算数の計算問題、国語の書き取り問題、日記帳など、全部合わせると漫画と同じくらいの厚さがあった。夏休み前日に学校から帰ってきて、ランドセルから取り出して机に置くと、そのあまりの威圧感にゲンナリしてしまった。宿題などすぐに終わらせて残りの休みを一切の心配事なく満喫すると決意していた終業式の僕はどこへやら、積み上げられた大量の冊子はただの一度も開かれることなく威風堂々と机の大部分を占拠し続けている。動かざること山のごとしと言わんばかりである。それならば僕もとことんまで付き合ってみせよう、安易に少しずつ消化するなどというのはあまりにも卑怯な姿勢ではないだろうか。いやそうに違いない、などと考えてるうちに気がつけば元の居間へと向かい、一度そこを通り過ぎて、台所まで侵略するとこれまた立派な風格の冷蔵庫の足元からアイスキャンディを拝借して、わが本陣、扇風機の前へと凱旋を果たした。

 居間の引き戸の向こう、いま自分が歩いてきた縁側、さらにその奥に見える庭の木にセミが留まっていた。このとき外を見た理由はいまでも判然としない。無意識に移ろう視線で捉える有象無象の光景から、どうしてこの一匹だけが意識を支配したのだろうか。とにかく僕はそのセミを見つめることになった。なんだか気になったのだ。

 セミは声をあげて鳴いていた。ジリリジリリと大声をあげている。辺りには他のセミの声も響いていた。だから僕が聴いている声がそのセミのものなのかどうか本当はわからなかった。ただ僕にはそのセミが力の限り叫んでいるように思えた。別に理由はない。今に至るまで手を抜いて鳴いているセミがいると感じたこともない。だからすべてのセミは叫んでいるのかもしれないけれど、それでもそのセミは叫んでいるように思えた。

 しばらく僕の眼球は固定されたままだった。もしかしたら本当はそんなに長い時間でもなかったのかもしれない。少なくとも手にしたアイスキャンディは溶けていなかった。でも一瞬とも思えなかった。いずれにしても彼は何かを訴えるように鳴き続けたあと、ポトリと木から剥がれた。「あっ」と僕は声を出した。腹を空に向けて地面へと落ちていく。その過程を僕はすべて見ていた。時間の流れがとてもゆっくりだった。やがてその身体が地上へと達するというその瞬間に、背後でドサリとものすごい音がして、僕の身体はやむなく半回転することを余儀なくされた。そこにあったのは人間の死体だった。

 後から起きた出来事があまりに衝撃的だったので、もしかしたら実際以上に強調されて記憶されているのかもしれないけれど、それまでの時間はなんだかとても奇妙なものだった。緊張の糸というものが目に見えて触れてしまえそうなほど、それが切れてしまえば二度とは繋がらないと確信できるほど、張り詰めていた。たとえば誰かに背後から驚かされでもしようものなら、瞬く間に白痴にでもなってしまうのではないかと思うほど、僕の意識はある種の鋭敏さを持っていた。

 しかし突然、目の前に出現した人間の死体というのはあまりに非現実的だったので、理解の程度をとっくに超えてしまったのか、僕の精神は壊れることなく済んだ。ただ理解できないということに変わりはなく、そのために目一杯稼働した僕の頭脳に異常が発生したのか、僕は声をあげることも忘れて、ただボンヤリと、お母さんに怒られちゃうな、などとトンチンカンな心配をしていた。

 その死体はとても奇妙なものに思えた。本物の人間の死体を見るのははじめてだったし、それが空から降ってきて部屋の中に現れるなどというのも当然未知の体験だった。突如として非日常を彷徨うこととなった僕が『普通』の感覚で世界と接触していたかというと疑わざるを得ないのだけれど、居間に転がる見知らぬ男はその発生の特殊さを無視しても実に不思議極まっていた。年齢はだいたい三十歳くらいだろうか。もしかしたらもっと若いかもしれないし、その反対かもしれない。とにかく形容し難い容姿をしていた。一瞬でも目を離してしまえば、まるで違う見た目に変容していて、僕はきっとそれに気がつくこともないまま受け入れる。特徴がないとか、凡庸とか、そんな表現ともまた違う。たとえこの死体に三つの眼があったり、肌の色が紫だったりしても、結果は同じに違いなかった。まるで脳が詳細な認識を拒んでいるようだった。

 その男は僕を見ていた。その瞳は、生の灯を失ってもなお、真っすぐに僕を見据えていた。まるで何かを訴えているようだった。そのまましばらく僕らは見つめ合っていた。このまま永遠の時が流れてしまうような感覚があった。もしかしたらもうすでに信じられないほどの時間が経過していてもおかしくなかった。

 でもそれらはすべて錯覚だった。僕が死体の頭の側に少しだけ移動すると、死体は僕を見るのをやめて、かわりに僕が見ていた庭の木を見るようになった。死体はただ虚空を見ていたに過ぎなかった。眼球の向く先に僕が立っていた、ただそれだけのことだった。改めてその瞳を見てみると、そこには何の想いもなかった。かつて生命が宿っていたことが想像できないくらいに、その肉体は空っぽだった。

 永遠の虚無を抱くその男に尋ねたいことはたくさんあったが、そのどれにも答える気はないようだった。全ての面倒事は僕に任せると言わんばかりの態度で他人様の家の一等地で寝そべっている。もはやなすすべなし、と途方にくれていると、ガラガラと玄関の扉が開く音がした。お母さんが買い物を終えて帰ってきたのだ。後にも先にもこれほど安堵した瞬間はない。世界を再び取り戻したような感覚があった。それにしてもこの惨状をどう説明するべきだろうか、可能な限り思案したが、結局立ち尽くす以外の答えは見つからなかった。

 両手にスーパーの袋をぶら下げたお母さんは、居間に転がる知らない男の死体と、その傍に立つ僕を見て「靴は脱いだら揃えなさいっていつも言ってるでしょ」といつもと変わらない文句を言うだけだった。我が家のルールでは、他人の家で死ぬことよりも靴を脱ぎ散らかすことの方が罪の序列が上という可能性もあるが、どうやら今回の場合は、男の姿は僕にしか見えていないということらしかった。救いを求めるような気持ちで母親を見つめたが、チラリとこちらを見るだけで、買ってきた食材を冷蔵庫にしまう作業に取り掛かってしまった。「そんな顔するくらいなら何度も同じこと言わせない」と注意が重ねられただけだった。

 ここで僕が死体のことを口にしても状況が良くなることはないだろうと思った。きっと頭と心の病気を疑われて病院に連れていかれるだけだろう。もしも僕にしか見えないものならば、現実には存在していないものならば、その方がいいのかもしれない。とりあえず受け入れてみることにした。

 しかし、死体のそばで食事をするのはあまり気分が良いものではないので、眠いフリをして部屋にこもることにした。その日の晩御飯は好物のカレーだった。

 部屋に戻るとひどく疲れていた。あれだけ楽しみにしていたマンガも読む気がしなかった。しばらくベッドに横になっていたが、どうにも眠ることができなかったので、自分でも驚くべきことに、山と積まれた宿題と向き合うことにした。結局、その日のうちに半分ほどの宿題を終わらせることができた。

 翌朝、恐る恐る居間に向かってみるとそこに男の死体はなかった。昨日の残りのカレーを食べていると、セミが鳴きだした。庭の木に目を向けたが、そこにセミはいなかった。もっと遠くで鳴いているようだった。昨日のセミは木の近くに落ちているだろうか。少しだけ気になっていたが、おかわりしたカレーを食べているうちに、いつのまにか意識の外へ立ち去っていった。

 

 自宅に戻る。洗濯物が放り投げられているソファー、Fコードが引けなくて挫折したエレキギター、巷で人気のアイドルのポスター、無表情の男の死体、飲みかけのお茶のペットボトル、実家からの仕送りが入っていたダンボール。

 床に転がる死体はもう数か月も前に現れたものだ。小学六年生の夏にはじめて体験して以降、僕はずっとこの現象と付き合ってきたことになる。最初はとても混乱していたが、いまではすっかり慣れてしまった。何度か邂逅するにつれてこの男についての理解も進んでいた。彼は僕が無為で怠惰な生活を送っていると空から降ってくるのだ。空から、と言っても実際はどうなのかわからない。いつもドンと落ちるような音が聴こえて気がつくと床に伏せてこちらを見ている。天井や屋根の有無など関係なく出現するため、部屋の中にいきなり現れてる可能性もあるが、もう少し高いところから落ちてきたような音がする。そして僕が何か生産的なことをはじめるまでずっとそのままでいるのだ。

 夏休みの宿題を放置していたり、学校の部活動をサボッたり、未成年なのにタバコを吸ったり、好きな女の子に告白するか悩んだりした時、いつも僕はこの無表情の男と部屋を共にすることになった。僕自身が認めている通り、大抵は無為で怠惰な生活が原因なのだから、それを解消すること自体は僕のためになることがほとんどだった。そういう意味では、恐るべき話だが、この男は訪れるべき姿を間違えただけの導きの天使と言えなくもなかった。

 しかし時には、原因がわからない時もある。女の子に告白するかを迷っていた時に、突然現れた死体はいったい何を求めているのか不明だった。早急な決断を迫られているような気がして、不本意ながら背中を押されるようにして、僕は思いの言葉を綴った。そして結果は惨敗だった。悲しみに暮れながら家に帰ると冷たい肉体はまだそこにあった。結局、僕がその女の子への想いを忘れるまで、消えることはなかった。

 今回も同様だった。はたして何が原因なのか皆目理解は困難だった。僕が成長するにつれてこの現象の頻度は減っていた。大学を卒業する頃にはほとんど見なくなっていた。最近では日々の忙しさに追われ、もはや怠惰な生活など頼まれても送れるような状況にはなかった。しかしなぜかこの死体は少し前に現れてからずっと僕の部屋を占拠していた。死体は初めて現れたあの日から何も変わってはいなかった。いつの間にか僕はこの男よりも年上になってしまったかもしれない。ただ明確には断言できない。相変わらず死体の顔の描像は安定しなかった。

 それからしばらくの歳月が流れた。まだ死体は消えてはいない。僕はこの間にタバコを吸い始めていた。どうしてこの死体が消えないのか、僕にはひとつの見当があった。今日はそれを証明したいと思っている。でも本当のことを言えば、それが正しくても、間違っていても、どちらでもよかった。

 まずは散らかった部屋の片づけからはじめよう。かつて部屋を汚した時にも男は現れた。正確に言えば、住環境が荒れたせいで勉強に集中できなかったためかもしれなかったが、いずれにしても片付けをすることで男はいなくなった。でも今回は男が現れてからの期間があまりにも長かったため、また元の原因が特定できなかったために、部屋の整理はずっと後回しにされていたのだ。別にこのままでも良かったのだけれど、なんとなく綺麗にしておきたい気持ちがあった。

 数時間ほどかけて清掃が終わった。部屋はすっかりと綺麗になっていた。対照的に、床に転がる死体の奇妙さが際立った。壁に鹿の剥製が飾ってあって、隣に虎の絨毯が敷いてあれば、非常に趣味の悪いオブジェに見えなくもなかった。

 ベランダに出てタバコを一本だけ吸うことにした。向かいに建つアパートの一室でも同じように小さな明かりが灯っていた。なんだか気まずくなってすぐに部屋に戻ってしまった。気がつくと死体は消えていた。もしかしたら部屋を掃除したためだろうか。きっと違うだろうな、いよいよ僕は確信を深めていた。

 部屋を出ると、少しだけ寒さを感じた。陽が落ちてから出かけるにはやや薄手の格好で出てきてしまっただろうか。さっきベランダでタバコを吸った時には気にならなかったので、建物を挟んで風の吹き方が違うのかもしれない。目的地に向かって歩きながら、僕は辺りをキョロキョロと見回していた。それは僕自身も意識していない行動だった。すべてを受け入れたつもりでも、どこかで救いを求めていたのだろう。そしてそれは都合よく路上の片隅に落ちていたりはしない。

 フェンスにもたれながら僕はある男を待っていた。さきほど部屋からいなくなった、あの死体だった。でもしばらくしても現れることはなかった。きっとあの瞬間が最後の別れだったのだ。わかっていたはずだ。だからこれでいいのだ。

 無為で怠惰な生活を送っていると彼は現れる、そしてその原因を解消しようとすると消える——僕の推論は正しかった。これだけが僕が成した正しさだった。そのほかはすべて間違っていた。そういえば、僕の愚鈍な頭はいまさらながら、ひとつの事実にたどり着く。あの男は他ならぬ僕自身だったのだ。