うんざりブログ

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せかいのおわり

 

 彼女がまばたきをしたら世界が終わってしまった。

 どうか僕のことをおかしいと思わないでほしい。怪しい宗教に目覚めたわけでもないし、薬物乱用の末に幻覚を見ているわけでもない。もしも僕がおかしくなっていると思うのであれば、それはあなたも気がつかないうちにこの世界が狂ってしまったのだ。

 僕の表現がいささか正確でなかったことは認めよう。誤解を招いてしまったことを謝りたいと思う。みんなにとっての世界に何も変化がないことは知っている。彼女は神でも悪魔でもないただの人間なのだから、ただ瞼の閉開運動によって世界に大きな影響が起こったりはしない。北京の蝶の羽ばたきでニューヨークに嵐が起こることはあるかもしれないが。

 世界は今日も変わらず回り続けている。しかし彼女にとっての世界は終わってしまった。それは同時に僕らにとって『彼女』が終わってしまったことを意味していた。

 世界は個人の主観によって成立している。ある一つの出来事をとってもそれをどのように認識して解釈するかは各人によって異なる。あなたの世界はあなたが観測しているからこそ存在しているのであって、他の誰もあなたと同じ世界に生きることはできない。

 ところで、自己同一性に関しては以前より数多の議論が行われてきた。デカルトは『我思う、ゆえに、我あり』と意識の連続性により自己の同一性を規定したし、ヒュームは自我など存在せず『私』という実体は知覚の束に過ぎないと考えた。

 肉体について考えてみると、皮膚は一か月ほど、骨なら三年ほどで全く別の細胞へと入れ替わってしまう。たったいまあなたが、まぎれもなく自分の身体だと思っているものは、たった数年前には存在していなかったものなのだ。そして数年後には現在の身体は消滅してしまう。

 たとえばあなたが事故で左脚を失ったとする。それでもあなたはあなただろう。あなた自身も周囲の人々もそう思うはずだ。続いて右脚を失った。やはり問題なくあなただ。腕も失った。あなただ。脳以外を失った。果たしてあなただろうか。あなたであるという意識の連続性はある。何も知覚はない。誰かの身体と入れ替わった。あなただろうか。人々はあなたを知らない名前で呼ぶ。もしもあなたが本来の自分の存在を主張すれば人々はあなたの気が狂ったのだと言うかもしれない。あなたが大きな虫になってしまったとしたら最後は家族に殺されてしまうかもしれない。

 かつてあなたはコーヒーが嫌いだった。砂糖とミルクをたっぷりといれて何とか苦みを誤魔化していた。でも今は濃いエスプレッソを好んで飲んでいる。嗜好が大きく変化した時にそれは連続した意識を持つ人間と言えるのだろうか。久しぶりに会った友人の性格が大きく変化していたらどうだろう。まるで過去の友人とは直接結びつけられないほどに考え方が違っているとしたら。もしもあなたの大切な人が以前の記憶をほとんど失ってしまっているとしたら。それは。

 主観的な意識の連続性だけを問えば、もしも長いあいだ昏倒してしまったら前後で別人に変化してしまうのだろうか。いや、翌朝をベッドで迎えるだけでも、もしかしたらほんの一瞬だけ瞳を皮膚が覆い隠すだけでも。自分の意識が決して途切れることなく、変化することなく、連続しているなど誰が証明できるのだろうか。

 とにかく彼女の世界に、瞼が暗闇をもたらして——誰も気がつかないまま——それが明けた時には『彼女』はどこにもいなくなっていた。たったいままでメロドラマの流れる画面を見ていた眼は虚空を向き、せわしなくポップコーンを咀嚼していた口はその仕事を止め、わずかに覗くには白い歯の隙間にはキャラメル味の菓子のかけらが隠れこんでいた。

 もちろん僕の主観では『彼女』は存在していた。何も変わらない彼女がそこにいた。ただ表情のスイッチがいきなり切れてしまったように見えた。しばらくすると急に大声をあげて泣き出したので、やはり大変なことが起こったらしいことは僕にもわかった。

 彼女は自らに関するほとんど全ての記憶を失っていた。大学では心理学を専攻していたこと、ピーナツバタートーストが大嫌いなこと、小さいころにとても可愛がっていたブサイク犬のマックスのこと、それから僕のことも。

 こうして彼女の創りあげてきた世界は一瞬にして消えてしまった。『彼女』が見ていた世界はどこを探しても見つからない。そして時を同じくして『彼女』が死んでしまったことに僕はずっと後になってから気がついた。

 しばらくして僕たちは元の生活に戻っていた。病院では強いストレスが原因の記憶障害とされて入院した。でも僕には原因などないように思えた。それはきっとあまりにも理不尽な、人間の理を外れた出来事なのだろう。結局、治療の成果はほとんど得られることなく退院することになった。安定した日常生活を営んで適度な刺激を受けるのが一番ということだった。

 彼女は以前と変わらないように振舞っている。でも何もかもが違う。はじめは僕にもとても怯えていた。二人の関係は察しているようだったが彼女からすれば知らない男でしかなかった。僕に向けられる他人行儀の堅い言葉が、まるで形を持っているかのように心に刺さった。

 彼女は知識として『彼女』を知っていた。僕が教えたからだ。だからその通りに振舞っている。でも決して『彼女』にはなれないことをお互いがわかっていた。

 僕たちはいったいどのようにして個人を認識しているのだろうか。結局のところその見た目で判断しているにすぎないのではないか。彼女はいまや別人と言ってもよかった。それでも僕の脳は彼女と『彼女』を全く切り離して考えることはできない。反対に見知らぬ男性が現れて自分は『彼女』だと主張したらどうだろう。きっと僕は警察か少なくとも精神病院に通報することになる。

 そうだとすれば『僕』などというものは他人にとっては存在しないも同然ではないか。僕の形をした何かが存在するだけだ。しかしそれこそが他人にとっては『僕』にほかならない。

 たとえばあなたはリンゴをペットにする。あなたは毎日そのリンゴと過ごす。丁寧にタオルで表面を磨いたり、一日のうちの数時間は日光を浴びせたりもする。だんだんと愛着を覚え始めたころに突然誰かがやってきてそのリンゴを他のリンゴが山と積まれたカゴへと投げ込んでしまう。あなたは血眼になってペットのリンゴを探し出す。でもきっと見つからない。やや小ぶりでわずかに傷のあるリンゴは他にもたくさんあってそれらの中からたったひとつを見つけることなどあなたにはできない。こうしてあなたにとって大切にしていた『リンゴ』は消えてしまった。

 僕たちが人間に向ける眼はこれよりももう少し精密で、たとえば友達が雑踏に佇んでいれば、それを見分けることはできる。でもきっとそれだけだ。本質を考えれば、僕たちはリンゴと大した違いはない。実はあなたが心から信じれば『リンゴ』を見つけることはできる。必要なのは、あなたが信じこむことだけだ。

 記憶と人格を切り離すことはできない。それでもそれが全てではないはずだ。僕にだって忘れてしまったことや、変化した考え方がある。このあいだ久しぶりに出会った友人のことを僕はまったく覚えていなかった。それでも僕はきっと昔の僕と同一の人間だろう。

 彼女に関しても同じだ。ピーナツバターを買ってくるようになったり、マックスの写真をただ可愛いと褒めたり、僕のことを好きじゃないとしても。彼女はきっと『彼女』には戻れない。でも彼女を含めた僕たちのいったい誰があの瞬間の『自分』でいられるだろうか。

 僕たちは関係を失った。彼女は世界を失ってしまった。でもそれは完全な終わりじゃない。僕たちは再構築することができる。ちょうどこの間出会った友人とまた新たな関係を結んだように。彼女の瞼の閉開では世界は終わらないのだ。現実の世界を考えればここには多くの存在がある。それらひとつひとつが関係して複雑な日常を形成している。たとえ自分が自分を見失っても、他者が自分の存在を規定してくれる。彼女の存在は僕が規定すればいい。君はたしかにここにいる。

 僕があまりにじっと見つめていたからだろうか。いま彼女は親に怒られるのがわかっている子どものような表情でこちらを見ている。僕はそばまでいって肩まで伸びた髪を撫でてやる。彼女はしばらく困惑している様子だったが、やがて全身を包む不安が少しだけ解けていくのがわかった。顔を覗き込むと、恥ずかしそうにぎこちない笑顔を浮かべた。僕の知らない表情だったが、とても綺麗だ。

 暗闇——ほんの一瞬だけ世界が停電したような気がした。気のせいだと言われればそう思ってしまいそうなほどのわずかな時間。まるで宇宙全体を薄い膜が包み込んだような、奇妙な感覚。

 ドアがドンと開いて奇妙なピンク色のユニフォームを着た男が武器を携えて侵入してきた。一直線にこちらに向かってきて僕を殴りつけた。今度こそ確かな暗闇が世界を包む。暗黒の中を閃光がちらちらと舞っている。

「犯人確保!」

 男の声が響いている。いったい何の話かわからない。たぶん僕の身体を男たちが抱えるようにして引きずっている。全身が浮遊しているような感覚だったが、なんとか重力を見つけて立とうとしてみる。

 暗闇を抜け出そうと瞳を隠す薄い膜を持ち上げる。強烈な光が差し込んできて眩暈がする。ぼやけた世界のピントの調整が済むと、そこにいるべきはずの彼女がいない。知らない女がリンゴを持って座っていた。怯えた表情をしているようにも見えた。

 男たちは乱暴に僕を移動させている。外に連れ出されると奇妙な光景が広がっていた。紫色の空には緑色の太陽が二つ光っていた。それよりもずっと大きく見えるのは月だろうか。クレーターまではっきり見える。

 どうやら僕は逮捕されたらしい。でもそんなことはどうでもいい。いまわかるのは、どうやら『僕』の存在は世界から消えてしまったということだ。