うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

頼むからアンチであってくれ

 

 

 インターネットにおける有名人への誹謗中傷が問題になっている。誰かの言葉の毒にあてられて心を病んでしまえばそれを理由にさらに多くの悪意が集うことになる。

 そうした事態を防ぐための法の整備が謳われて、実際に、ひどく中傷してきた相手に対して訴訟を起こした有名人もいる。インターネットが生活の一部となった現代で、現実と同様のモラルやルールが求められるのは至極当然の流れだ。しかしそれらが多少の抑止力になったとしてもすべての犯罪行為が完全になくなるわけではないのもまた現実と同じことだろう。

 それならばこれもまた現実と同じように自らの身を守るための行動をしなければいけない。きっと一番簡単なのは悪意を含むすべての情報を遮断することだ。つまりインターネットをやめてしまうということである。犯罪などと大げさな話でなくても、SNSでのやりとりに疲弊してアカウントを削除したり、トラブルとなってしまった相手をブロックしたりという経験は多くの人にあるだろう。インターネットそのものへの接続を控えてしまえば、少なくとも自ら嫌な言葉を拾いにいってしまうという体験は防ぐことができる。

 インターネット上での他者の悪意など、そのほとんどは自らが認識さえしなければ存在していないも同然なのだ。たとえば僕があなたを想い、そして憎んでいることなどきっとあなたは知りもしない。そしてこれからも気がつくことなどないのだろう。それでいいのである。

 しかし実際にこれだけでは問題の解決は難しいかもしれない。たとえ情報の遮断を決意したとしても、自らに対するありとあらゆる罵詈雑言が並べ倒されていることを考えてしまったらどうしても気になってしまうのが人というものだろう。それに自分ひとりが情報を遮断したとしても、現実世界で関わりを持っている周囲の誰かによってインターネットの世界に連れていかれるかもしれない。それを防ぐために現実世界でのアクセスを遮断してしまったらそれはもはや心を病んでいるに等しく本末転倒だ。

 それではどうすればいいのだろうか。答えは原点回帰とでも言うべくひどく単純なものだ。すなわち『気にしない』ということである。

 

 他人に悪口を言われて傷つくのはどういう状況だろうか。もしもまったく的外れな批判をされたとしたら怒りや悲しみなどではなく疑問を感じ不可思議な気分になるのではないだろうか。たとえば痩身の相手に対して肥満を揶揄するような言葉を投げつければそれはもはや一種のユーモアである。相手を実際に傷つけたいのではなくまったく間違った言葉の選択をしてしまうという自らのずれ具合を開示することによる笑いの提供だと誰もが考える。しかしまるで冗談にしか捉えられないような行為を本気で行っているとしたらどうだろう。それはつまり批判者にとって攻撃するべきは対象者そのものだということになる。批判されるべき理由や条件の成立により批判が生ずるのではなく、とにかく批判されるべきだから批判を行うという論理なのだ。ゆえにそこに論理性などは存在するはずもなく、ただただ対象が気にくわないからとすべてに文句を言えば、内容がチグハグになるということも起こり得る。

 インターネットリンチの場合はほとんどこれである。そこに理由を求めてはいけない。寄生獣が人間の脳に寄生した瞬間に『この種を食い殺せ』と命令を受けたように、彼らも『インターネットで無関係の他人を叩く』という本能の訴えを受けているのだ。アンチ行為というのは嫌いだから嫌いなのであり、嫌いだから批判をするのだ。世間が嫌っているから自分も同様に嫌いであり、世間に嫌われているから苛烈な批判に晒されることを受け入れるべきに違いないというわけなのである。

 他人の炎上をお祭り行事のように捉えとにかく事を荒立てようと画策する愉快犯的なアンチ、自らの行動を社会正義と信じて疑わず少しでも失態を犯した者は極悪人に相違ないのだからとことんまで叩かれるべきと考えるアンチ、もはや存在すべてが理由もなく憎くてたまらず一切を否定しようとする逆信者アンチ、などさまざまなアンチが存在しており、どれだけ誠実に生活していてもいつその標的になってしまうかわからない。

 だから気にしないほかにないのである。公明正大で他者に優しくみんなに支持されている人物がいるとする。しかしそれでも彼を嫌う人物も存在するだろう。みんなに好かれていることを理由にアンチになることもあるかもしれない。そういう話なのだ。アンチの存在を気にしてしまうというのは、世界中の全人口に好かれようとしているのと同義である。はじめから不可能な話だ。

 

 いままでの人生で何度も叱責されてきた。そのたびに思うのである。目の前の僕を批判するこの人がアンチであったらどれだけいいだろうかと。ただ僕のことが理由もなく嫌いだから怒っているのである。具体的に何かを説明することはできないけれど、僕が憎くてたまらないからとにかく罵詈雑言を浴びせているのだ。そうだとすれば僕は何も気にする必要がない。他人に敵意や悪意を向けられること自体は悲しいことではあるけれど、それもアンチが相手なのだ。誰かを傷つけることに注力するようなイカれた精神の持ち主なのだから、それほど落ちこむこともないだろう。

 しかし実際はそうじゃない。きちんと僕を見据えているのだ。仔細に改善点を指摘されるものだから僕自身が否応にも向き合わされることになる。それがたまらなく辛い。アンチの声には耳を塞げても、自らの声にはできない。世界中が僕のアンチになればいい。そうでなければいよいよアクセスを遮断する他にない。

 

 アンチ云々などというのはすでに知名度のある有名人にこそ深く関わる問題であって、一般人には基本的に無関係の話かもしれない。しかし不適切な行為による炎上などは誰にでも起こり得る。こういった場合はもちろん本人にも責任がある。つまり裏を返せば自分の行動によって防ぐことが可能ということである。ほかにも仲間内でのSNSトラブルやネットイジメ、ネットストーカー被害などインターネットが生活の一部となった今日だからこそ起こる問題はさまざまある。その便利さの陰に潜んでいる危険性について認識するとともにいま一度インターネットとの向き合い方を考えてみるべきではないだろうか。

 

 

 『生理的に無理』というのが好きな女の子のあなたへの評価である。彼女が友達と話しているのをあなたは偶然聞いてしまった。実はこの言葉も構造的にはアンチと同じだ。具体的にどこがダメというわけではなくなんとなくボンヤリと存在を否定しているのである。つまり本当はあなたを拒否する言葉など何一つないのだ。だからあなたはその言葉を無視することができる。当時アンチの生態を知らなかった僕はこの言葉を真に受けて深く傷ついてしまった。それからというもの彼女のSNSを監視して複数のサブアカウントでリプライやコメントをすることしかできなくなってしまった。僕が彼女を想い、そして憎んでいることなどきっと彼女は知りもしない。そしてこれからも気がつくことなどないのだろう。それでいいのである。