うんざりブログ

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救い

 

 男は電車に揺られていた。いくつかの路線を乗り継いで目的地を目指していた。長い時間をかけての移動となると普段であれば早々に眠りこけてしまうところであるが、その日はボンヤリと外を眺め続けた。穏やかな空模様の移ろいのように、窓越しの景色はゆっくりと流れていた。長年勤めていた仕事を先月退職したばかりだった。

 やがて電車は目的の駅に到着した。途中あれほど混雑していた車内もここにきて数えるほどの乗客しかいなかった。やや古くなった薄緑の車体はさらにその中身を軽くしてまた走りだす。ガタガタと鳴る音がだんだんと遠くなりやがて見えなくなっていった。

 そこは男にとってはじめて訪れる場所だった。どこにでもある小さな町だ。駅員に切符を渡して改札を抜けると辺りからほのかにクチナシの匂いが香ってきた。季節はこれから本格的な夏を迎えようとしている。

 ポケットから折りたたまれた地図を取り出す。目指すべき場所はここから数ブロックほど離れたところだった。柔らかな風を感じながら陽の下を歩きだした。

 しばらくすると大勢の人が集まっているのが見えた。ほとんどの人は黒の服装に身を包んでいる。とうとう目的の場所に到着したのだ。

 人々の中心には大きな棺があった。その上には花束がいくつか置かれている。棺に寄り添い泣きじゃくる二人の幼い少年は故人の子供だろうか。それを抱きかかえる母親の瞳は強い悲しみを湛えてはいるが、それでも凛とした表情を崩さないでいた。

 彼らを囲む人々も一様に故人を偲んでいるようであった。多くの人に愛され、そして多くの人を愛した人生だったのだろう。男はそんな様子を遠巻きに見ながらそっと祈りを捧げた。

 たとえ愛されなかった者でも、罪を抱えし者でも、本当に神はすべてを赦してくれるだろうか。

 牧師による聖書の朗読が始まった。死者との最後の時間だ。やがて彼はこの冷たい墓の下に埋められて土の中で永遠に眠ることになる。

 男は今日に繋がる過去を思い出していた。

 

 かつて男はカウンセリングの仕事をしており、非行少年の更生を目的とした施設に勤めていた。ある日そこで一人の少年と出会った。彼の部屋の格子のはめられた窓からは日照り雨が降っているのが見えた。

 彼は自分と同じくらいの年齢の少年を殺害した罪で入所していた。相手の少年に奪われたタバコ数箱を買える程度のお金を取り戻すためという普通には信じられないような理由だった。

 彼の家庭は非常に貧しく両親はともに薬物中毒に陥っていた。日常的に虐待を受けており逮捕された時も全身に痣を作っていたという。頭を抱えるようなひどい話だが決して珍しいことではない。この施設で出会う少年たちのほとんどは家庭に大きな問題を抱えている。

 犯行当日、彼は父親の命令で買い物に向かっていた。そこで被害者に金銭を奪われた。彼の住む地区は国の中でも最も貧しい地域の一つだ。そのまま家に帰れば父親からの暴力が待っている。そこで彼は路上にあったレンガで相手の後頭部を打ち据えた。被害者はそのまま昏倒しやがて亡くなった。彼はお金を取り戻し目的を果たすと安心して帰宅した。

 彼の裁判は速やかに結審したという。彼がすべての事実をあっさりと認めたためだ。何かを取り繕う必要もなかったのかもしれない。自分にどのような刑罰が与えられるのかすら無関心だった。彼の両親は裁判中に一度もその姿を見せなかった。

 男の質問に彼は素直に応じた。精神的な異常や性格的に凶暴なところがあるわけでもなかった。しかし読み書きや簡単な計算すらままならない状態であった。むろん知能に問題があるわけではなく然るべき教育環境に置かれてこなかったためだ。また善悪の判断が十分でなかった。道徳的な判断価値がほとんど備わっていないことがわかった。おそらく殺人の瞬間でさえ彼はほとんど平常心であったに違いない。今度の事件も彼にとっては部屋に入ってきた虫を潰すのとそう変わらなかったのかもしれない。

 彼は自分の罪をまったく認識していなかった。本来であればそれは裁判中に主張されるべきことであり、そうであれば結果もまた変わっていたかもしれない。しかし彼のような貧しい地域の少年の非行は簡単に処理されてしまうのが現実だ。今回の場合は被疑者が犯行をすべて認めているのだからなおさらだった。

 罪を自覚しないものを裁くことなどできるのだろうか。反省を促すことなどできるのだろうか。彼はこれからの生活の中でいったい何を償うというのだろうか。男は悩んでいた。

 心配されていた彼の生活であったが意外というべきか反抗的な姿勢は見られず与えられた仕事にも熱心に積極的に取り組んでいた。誰かに正しく必要とされることが嬉しかったのだろう。刑務所の中に閉じ込められたいまの生活の方が楽しいと言うのだから彼のこれまでの人生は察するに余り有る。もし少しでも何かが違っていたらきっと彼らが出会うことなどなかったのかもしれない。

 それから幾年もの日々が過ぎて彼の出所が決まった時には、男は部下を教育する立場になっており、かつての少年はその面影をわずかに残す青年へと成長していた。彼はこの刑務所生活の中で様々なことを学び優秀ともいえるほどになっていた。

 男は安心していた。いままで多くの罪を抱える少年を見てきた。なかには全く反省のない者もいた。彼らは与えられた刑期を務めあげることにしか興味がなく自分の犯した罪などと向き合おうともしなかった。そうして決まって檻の中へと戻ってくるのだ。しかし彼に関してはその心配もないだろうと思った。

 ある日、青年が男のもとを訪れた。いままでに何度も行われてきた、そして最後の面談だった。彼はどこか落ち着かない様子だった。出所するのは不安か、と男が尋ねると、確かにそうだ、と青年は答えた。人生の大半を施設の中で過ごしてきたのだ。刑期を終える喜びもあるだろうが、未知の世界に帰る恐怖もあるはずだ。

 青年が続けて口を開く。ここにきて多くのことを学んだ。それは喜びであり人生を豊かにしてくれた。そして同時に自分が犯した罪の重さを知ることになった。自分は決して取り返しのつかないことをしてしまったのだ。自分はこれから自由になる。それは被害者が二度と感じることのできないものだ。どうして自分だけがそれを手にすることができるだろうか。

 男は絶句した。ここで慰めの言葉を言うのは簡単だった。彼は刑期を全うし法律的には罪を償ったのだ。十分に反省もしているように思えた。それを与えてこれからの人生を祝福するのは難しくない。実際にいままでに彼はそうしてきた。しかしいまこの青年に必要なのはそんな気休めはではなかった。

 被害者の立場になって考えれば加害者を赦すことなど決してできない。男には小学校にあがったばかりの息子がいた。もし彼が犯罪に巻き込まれ命を失ってしまったとしたら一体どれほどの絶望に陥るだろうか。やがて燃え上がる復讐の炎はきっと死ぬまで消えることはないだろう。

 この青年が不幸であったことは事実だ。彼は決して生まれついての悪というわけではない。純朴な少年を人の命を奪うほどに追いこんだ周囲の環境やそれをつくりあげてしまった社会全体にも責任はたしかにあるだろう。しかしそれでも最終的な選択は彼自身のものだ、と男は思った。

 そしてどれだけ慰めの言葉を並べたとしても彼自身が決して自分を赦しはしないだろう。いま彼を裁くのはかつての少年だけなのだ。これは決してひとつの終わりではない。彼の本当の贖罪はこれからはじまるのだろうと思った。

 

 ポケットから一枚の紙を取り出す。かつて男に一通だけ宛てられた青年からの手紙だった。ずいぶんと古くなり用紙全体が黄色くなってはいるものの丁寧に書かれた文字は依然としてはっきりと読むことができた。

『お久しぶりです。あれからしばらくになると思います。私は紹介していただいた仕事に就きなんとか生活しております。数年前になりますが職場で出会った女性と結婚しました。こんな私を愛してくれる素晴らしい女性です。子供も生まれました。彼女に似たかわいい男の子です。私は幸せな毎日を送っていると思います。しかしそれが同時に苦しみでもあるのです。幸福な時間を過ごすとき頭の中にもう一人の私が現れて囁くのです。はたしてお前にそんな権利があるのか、と。その言葉を聞くと途端に背筋が凍る思いがします。愛する家族に囲まれているはずが世界にたった一人の孤独であるような気がしてならないのです。もちろんこれは自分の悲しみを憐れんでいるわけではありません。私が受けるべき当然の罰であると理解しています。自分は決して赦されないことをしたのですから。

出所後、被害者のご家族へ謝罪をしたいと思いましたが拒否されてしまいました。私は大切な者の命を奪った憎むべき犯人なのですから当たり前です。しかしわかってはいても途方にくれてしまいました。私にはもはや償うすべが見当たらないのです。きっとこの思いでさえご家族には迷惑なのだろうと思います。私は私が救われたいだけなのでしょう。誰かの人生を償う手段などあろうはずもないのに私はどこかでいつか許される日が来るのではないかと思っていました。こんな傲慢な私ですからこんな状況にあって然るべきです。

いま妻と息子は隣で寝息を立てています。何よりも大切な愛すべき者です。彼らを失うことなど想像もしたくありません。しかし私は誰かにそんな想いをさせた人間なのです。いま私を生き永らえさせているのは被害者のご家族に対する贖罪の気持ちだけです。もしも私の死を彼らが望むのであれば喜んでそうするつもりです。死ぬことは怖くありません。私が死ぬことによってすべて終わってしまうのだけが心残りです』

 愛する家族でさえ彼を地獄から連れ戻すことはできなかったのだ。男は今日に至るまで結局返信することはなかった。彼がそれを望んでいるとも思わなかったからだ。男は考えた。これはあくまで自分の主観的な意見だ。決して自分の中でも普遍的なものではない。自分とこの青年の間にだけ成立するエゴの塊のような感情だ。たしかに失った命は決してかえってはこない。それならばもう一つの命を大切にすべきではないだろうか。

 

「あの人は多くの苦悩を抱えていました。いくつもの罪を私に告白された」

 儀式を終えた牧師が近づいてきた。いつから私に気がついていたのだろうか。彼の目尻には皺が刻まれており、全てを見透かしているような薄灰色の瞳にはかすかな憂いを帯びていた。

「彼は救われるのかな」

 男は問う。彼だけではない。天に召された魂を神は救ってくれるのだろうか。

「私はそう信じています」

 自分もそう信じたいと男は思った。誰にでもいつの日か安らかな眠りがくることを。名前も知らない者の魂のためにもう一度祈りを捧げた。

「それでも誰かの命が失われるのはとても辛いことです」

「ああそうだね」

 男は深く頷いた。その時ぽつりぽつりと雨が降り出した。空にはまだ太陽が顔を覗かせていた。不思議な雨だった。男は悩んでいたがここにきてかけるべき言葉は最初から決まっていたように思えた。

「君とまた会えて嬉しいよ」