うんざりブログ

それぞれ-1/-1の修正を受ける。

君はもう幼くない僕を推さない

 

 

これが浪人か、さらばもう一度

 いよいよ三十路を迎えようとしている。

 ちょうど十年前。僕はいまと同じように自宅に引きこもってブログを書いていた。彼が大人びていたのか、僕が成長していないのか、わからない。たぶん、知る必要はない。

 僕は浪人生を名乗り受験ブログを書いていた。実際にはただの日記ブログで、実際にはただのニートだった。勉強の記録を建前に、面白いと思ったことを書いていた。勉強記録はほとんど嘘だった。

 ただの浪人生のブログにしては読まれたほうじゃないかと思う。もちろんそれは比較的という話であって、比較先は任意に設定している。たとえば季刊の学校便りのPTA代表の挨拶とかソシャゲの登録時に表示されるプライバシーポリシーなどがそれだ。それらと比較すれば僕の拙文の方がもう少し世間的な興味を惹いたというわけである。

 特に人気のあったのは『うんこぶりぶり』というキーワードの登場する記事だった。とにかくこの言葉は読者を興奮させる何かがあり、イマイチ記事にインパクトが足りないなと感じればそれを挿入するだけの簡単な作業だった。一人暮らしの男の料理におけるウェイパーと同じだけのお手軽な支配力があった。

 つまり、これは改めて考えた結果たったいま判明した客観的な事実らしいのだが、僕のブログはうんこに支えられていたのだ。

 ……十年前の僕は実年齢と比較して子供じみていた。それは認めよう。どうやら少しは成長できたらしい。しかし未だにだらだらとブログを書いている。そして当時より読者は少ない。2022年。

 

『推し』について

推しという概念が理解できない

 ここでいう理解とは認識の話ではない。世の中には『推し』という文化が存在していることは承知しており、その具体的な内容についても把握しているつもりだ。しかし僕はその文化に対して共感を覚えてはいない。そういう意味だ。勘違いしないでほしいのは決して否定的な捉え方をしているわけではないということだ。

 あえてわかりにくく例えてみよう。僕は酒類を好んでは飲まず、特にビールに関しては苦くてとても不味いと思っている。しかしそれを愛飲している人や、彼らが美味いと感じていることを否定はしない。感性というのは多種多様で誰かにとっての至極の一杯が、別の誰かにとっては泡立ちの良い小便に過ぎないということは当然あり得る話なのだ。

 もしくは、可愛らしい女子中学生を見て、彼女が同年代の男子に人気のあることは容易に想像できても実際に自分自身が心惹かれたりしないのと同じだ。十五年も前なら告白はしないまでも縦笛の一舐めくらいはという気持ちになるかもしれないが、時間の隔たりによって同一人物ですら同質の感情を抱くことができなくなる。

 以上、不適切な例えによる不適当な例え。

 とにかく僕は推さないが、他の誰かが推すことを、否定はしない。

 

推しという言葉について

 これは余談的な話。

 『推し』というのは要するに特別な贔屓ということだろう。従来の一般的な言葉で言い換えれば『熱心なファン』になるのかもしれない。正確には『推し』は『ファン(推す人)の対象』であり『推し』と『ファン』は可換の言葉ではないので、以下の話では『ファン(の対象)』と読み替えてほしい。

 『推し』と『ファン』という言葉。この二つは大雑把に分類してしまえば類似の言葉かもしれないが、それぞれが内包しているニュアンスには多少の違いがあるように感じる。これから述べるのは極めて曖昧な感覚に頼り切った僕の超主観的な解釈であることに留意したい。

 近年では『ファン』という言葉に代わって、もしくは同等程度に『推し』が広く市民権を得ているように感じられる。その他の言葉と同様にネットのオタクを中心に用いられていた言葉がいつのまにか一般にも浸透した形だ。(たぶん)

 『推し』には『推す』という動詞系があり、『推し』を応援すること、他人に布教すること、そして『推し』に向ける強い感情の高まりを簡潔に言い表すことができる。さらに『推し』というのは『推す対象』なわけだが、この言葉は対象の属性に関わらず用いることができる。女性アイドル、アニメのキャラクター、憧れのスポーツ選手、無生物、はては概念などにも適用される。そして『推す』程度の大小にも影響されない。

 「一人よがり今井さんは私にとってファンというほどではないものの気になっており恋愛感情は皆無でありながら異性というところに意味があるそこそこ好きな存在です」というよりも「一人よがり今井を最近推してます」という方が色々と簡単だ。

 『推す』は一般的に使われる中では最小級のわずか二文字の動詞だが、そのシンプルさがかえって複雑な胸中を想像させるのではないか。間抜けなほどの柔らかな響きは、対象への強い愛着を感じさせる。比較すると『ファン』という言葉はやや客観的で対象への身近さが足りない。

 こうしてみんな誰かを『推し』ていく。

 

君はもう幼くない僕を推さない

 僕はこれまで何かを推したことがない。少なくとも他人に誇れるほど、何かに対して入れ込んだことがない。好きなアーティストや作家などはいる。もちろんそれは作品ありきの好きなのだが、作者自体への興味もある。ただ彼らを推そうなどという気持ちはない。結婚しようが、罪を犯そうが、Twitterで政治的発言をしようが、特に関心がない。

 アイドルなんかはもってのほかだ。可愛い、ただそれだけだ。僕が興味を持ったところで、それはどこまでも一方通行な愛情に過ぎない。そもそも僕らは彼や彼女の本当の人間性なんて知りようがないじゃないか。表でどれだけ愛嬌を振りまいたって、裏で何をしているかわからない。他人には見せられないようなことだってしているかもしれない。

 でもそれで当然だとも思う。アイドルだって人間なのだから、勝手に崇拝して、自分の理想と違っていたからって失望するほうが間違っている。どんなに優れた人間だって間違いを犯す。時には他人を傷つけることだってある。女神のように可愛らしい女の子だってトイレに入ればどうせ肛門を大きく開いて排便しているんだ。僕と同じようにうんこをしている。ああ、なんて汚らわしい!クソ女!

 

 やっぱりそうだ。僕はうんこの力を信じている。うんこが僕を救ってくれる。僕はいつまでもうんこだけを推している。

買い物カートを押す老婆・反ワクチン・そして生命の螺旋

 

 

ワクチンやめますか?それとも人間やめますか?

 新型コロナウイルスに関しては当初から現在に至るまで世界中で数多くの疑念が生まれ続けている。マスクの有効性について、またマスク社会が当然のように形成されていることについて、不審そして反発がある。COVID-19も所詮ただの流行り風邪に過ぎないという意見もある。実際に罹患しても症状の出ない人も珍しくないという。

 世界の日常を変えてしまったこの由々しき問題が人為的に作り上げられた陰謀だという説すら囁かれているではないか。そしてワクチンに関してもやはり同様の怪しげな噂がある。ワクチンを接種することによって遺伝子が書き換えられてしまうという。それでもあなたはワクチン打ちますか?

 もちろんこれらすべてを無条件に首肯するわけではない。眉唾物の話も随分とある。我々の置かれている状況をすべてくだらぬ茶番と断じてしまうのは、これまでに失ったすべてのものに対して十分すぎる冒涜だ。しかしながらこれまでに世界が分断されているのを未だかつて見たことがあるだろうか?

 正しさは数の多寡によって決まるわけではない(つまり最大勢力である“一般”も正しいとは限らない)が、“少数派”の意見を気狂いの妄想として片付けてしまうには今回はあまりにその数が多すぎる。
 あなたもたしかにコロナ禍の出来事についての疑問を目に、耳に、したことがあるはずだ。それについてたった一度でも自分の頭で考えてみたことはあるだろうか。我々は世界というものを無意識に信頼しすぎてはいないだろうか。あなたの抱える常識も、当然とされる前提も、すべて都合よく操作されているのだとしたら?

 思考停止で舌をダラリと垂らしてよだれで顎を濡らし喜び勇みながらワクチン接種に向かうさまはまるで犬、政府や組織の従順な犬のようである。もしくは豚だ。考えることをやめて都合のいい情報だけを信じるのは醜く太り肥えた豚だ。不満足な人間から満足した豚へ。こうして人間をやめていく。

 ワクチン接種により私達は人間たる矜持を捨てて尊厳の欠片も持たない野蛮な畜生へと成り下がってしまうのだ。

 

畜生と哲学的ゾンビユートピア

 ワクチンを接種することにより遺伝子が組み替えられてしまうという。DNAの書き換えによる自己の喪失。個々の人格などはあっというまに霧散し、後にはただ生物としてのヒトだけが残される。数百の骨に臓器と筋肉、それを包む全身の皮膚――人間の形をしたそれに画一的な“望ましい”人格が再構成される。生まれ変わりには冷徹な死が先立つ。

 新たな時代の人々は平凡であることを望み、特別であることを嫌う。多数派に所属しているという事実が彼らを安心させ、異なる考え方を持つ者が恐れをもたらす。そして恐怖は常に憎悪を伴っている。少数の異端者を排斥する動きは多数決に従って正当化され、どんなに残酷な手段であっても肯定される。なぜならばそれこそが我々の社会における正義なのだから。この考えは杞憂だろうか?しかしワクチンを接種することが実質的に強要されている現実がいまこの瞬間に存在しているではないか。反ワクチンは、反マスクは遠ざけられ、やがて攻撃の対象へと変わってしまう。

 国家への信奉は大きな集団に所属するための最も効果的な手段だ。彼らはその生活の全てを管理されることに疑いを持たず、むしろ大きな安堵を覚えることだろう。個人としての人格を捨てて、巨大な組織の一部となることが彼らの幸福の最大の到達点なのである。

 我々などは国家を動かす小さな歯車の一つに過ぎない。歯車は与えられた役割をどこまでも忠実にこなす。そもそも周囲と連動している彼らには自分だけが異なる動きを行う自由などない。ひとたび回りだしてしまえばそれがどんな結果を生み出すことになろうとも自らの意思で止まることはない。たとえば日常の平和を脅かす外敵に対して攻撃を加えることもあるだろう。しかしそれも完璧に遂行してみせる。無慈悲に。冷酷に。

 そして歯車は換えが効く。動かなくなれば違う部品と交換すればよいのだ。そして国家は動き続ける。我々の人間性を代償にして。ワクチン接種により体内を循環していたはずの血液はすっかりその熱を失ってしまう。ああ……

 

最後の希望

 しかし世界はまだ、人間はまだ完全に敗北したわけではない。わずかながらも圧倒的な社会的潮流に逆らい死にもの狂いで藻掻き続けている者たちがいる。彼らはいちはやくワクチン接種による危険性に気がついたのだ!

 遺伝子組み換えにおける体質の変化の代表的なものに身体の磁石化がある。なんと恐ろしいことだろうか。実際に胸部に金属製のスプーンを貼り付けてみせた人もいる。手を離れたその物体は曝け出された皮膚にしっとりと吸い付き、従うべき地球の引力による落下を拒否していた。

 たしかに金属は人間の生活を豊かにした。しかしそれと同時に金属と人類の歴史は常に血塗られてきたこともまた事実だ。生み出された多くの武器によって数えきれないほどの尊い生命が奪われてきた。我々はその強大な力を誇示せずにはいられなかったのである。人間の理性を破綻させるような抗いようのない魔法的な引力がそこには存在しており、それはこの二十一世紀においても衰えることを知らない。

 普段は温厚な人物が車を運転するときに限って凶暴な一面を覗かせるという話は珍しくない。巨大な鉄の塊はやがて自らの身体へと溶け込み、一方で精神はそれまでの肉体を一瞬にして破壊し得る速度と質量を持ったものへと延展、自らの領域を拡大する。

 これはより身近な、つまりより肉体的な場面でも見ることができる。買い物カートを押す老婆がその代表だ。彼女たちは、その脆弱な肉体に対して、他者への攻撃性は非常に強いものがある。この場合も、やはり精神は金属的な肉体へと延展を見せており、すなわち金属製の車輪駆動のカゴは肉体の一部と化しているのだ。その不釣り合いに強靭な新たな肉体は自らの領域を誇示しており、進行方向を塞いでいる他者を存分に威圧し、直接的な接触によって攻撃することもある。もちろんこれらはすべて彼女たちの本来の意思とは無関係に行われたものである。肉体の金属化の孕む不可避的な副作用なのだ。

 このように実は我々は日常の中ですでに肉体の金属化を経験していたのである。そして理性の喪失を実感し、心の奥底に潜む攻撃的な意識を垣間見た。賢明な人々、つまりワクチン接種に反対する者たちは、このようにして先見的な不信を抱いていたというわけである。

 もちろん肉体の金属化とは、最終的には人間がロボットそのものになってしまうことを意味している。様々な側面から我々は人間性の喪失の危機に面している。その一つは前述の通りである。

 はたして我々に希望は残されているのか?残念ながら可能性は極めて少ないのかもしれない。しかしながら我々は人間として、はるか昔からその生命のバトンを繋いできた。こんな時代だからこそ、我々は真の意味で生きなければならないのではないか。野蛮な家畜としてでも、冷酷な機械としてでもなく、心ある人間としてその生を全うし、次の世代の生命を灯さねばならないのだ。

 政府の欺瞞に騙されてはならない。ワクチンの接種などしてはならない。命を紡げ、命を燃やせ、あなたの生殖器には、人類の未来が、無限の可能性が広がっている!立ち上がれ!屹立させろ!ワクワクチンチン!ああ!

少食そうだと言われて勃起した

 

「今井くんって少食そうだよね」

 最近発売になったインスタント食品をダンボールから取り出しながら彼女はそう言った。彼女というのは僕のバイト先の同僚の女性で、僕の母親よりもわずかに若い程度のお姉さまだった。もちろん人妻だ。

 その行動と、言葉を関連付けると、こういうジャンクな食べ物は好まないでしょう、という意味も含んでいるのだろうと思った。

「わかる~お肉とか全然食べないでしょ」

 近くにいた別の女性が僕より先に反応する。この女性もやはり、僕の隣に並べば親子に見えるくらいの年齢差があった。つまるところ僕は歳上の女性に囲まれながら、糊口を凌ぐために仕事をしていた。人生に与えられた限りある時間を低効率でお金に変換するだけのつまらない仕事だ。

「野菜ばっかり食べてそうだよね。シャキシャキの」

 トートロジーだ。肉を食べないことと、野菜ばかり食べていることはほとんど同義語に等しい(もちろん厳密には肉以外の食材がすべて野菜に分類されるわけではない)。彼女は巧みなレトリックでこの会話に文学的な彩りを添えようとしている。

 擬音を用いて瑞々しさに拘るのは、僕が周囲と比較すれば若年であるということに無関係ではないのだろう。フレッシュなイメージの強調は何を意味しているのだろうか。

「あははは」

 二人で声をあげて笑う。

 僕と言えば終始へらへらと笑っていた。笑顔を見せて同意の相槌さえ忘れなければ大抵の会話は円滑に進んでいく。特に自分に対する言及などは寛容(かんよう)な態度を見せることが肝要(かんよう)だった。

「まあでも普通に色々と食べますよ。へへへ」

 返答について頭の内側では様々な言葉が浮かんでいた。しかし結局のところ、僕の口をついて出たのはあまりに無難な台詞だった。決して驚くなかれ、社会で生きる僕は実は万事この調子なのだった。

 むしろこれでも立派に会話を成立させているほうだ。「そうですね」という完全な首肯によりあっさりと結論を纏め上げることもできたはずだった。そうであれば相手方は「やっぱりね」と自分の予想が正しかったことに満足して、話題への興味を失うかもしれない。

 しかし実際に僕が起こしたのは軽度の否定という反応だった。これは興味に目を輝かせている同僚に、新たな疑問を生み出し、さらなる会話の糸口を与えることになる。これが生きた会話でなければ何だというんだ!

 蒔かれた論争の種はまもなく芽を出し、木の枝が分岐するように多様な広がりを見せて、再び決断を迫る。それは僕にとって価値のあるものではなかったが、野生に立ち返る強さを持たない、社会に隷属している動物が等しく背負うべき定めだと理解していた。

 一方で、この行為は僕にとって必要なものでもあった。言うなればこれは牽制、個人的な領分には深く踏み込ませないという意志の表明なのだ。そうでなければ僕の仕事とは切り離している普段の生活やプライベートな情報まで土足で踏み荒らされてしまうかもしれない。

 はては「今井くんって恋人はいるの?」などと始まって「恋愛も消極的なの?」「エッチなことには興味あるの?」とキュレーションサイトのように疑問符が熱を帯び「最近旦那とはご無沙汰で……」と唐突な桃色の自分語りがはじまらないとも限らない。

 とても危うい事態だ。

 僕の身長/体重はだいたい180cm/70kg。ヤード・ポンド法ならば5フィート11インチ/154ポンド。江戸時代であればだいたい六尺/十九貫。当時としては目を瞠るほどの大男だ。現代日本においても平均身長を大きく上回っている。

 それならば「いっぱい食べそうだね」が適切な印象のはずじゃないか。もちろん身長と食事量は必ずしも比例しないが、僕の場合は体格も相応にある。少なくとも風が吹けば飛ばされるというように極端に細くはない。原因はやはり内面にあるのだろうか。

 前述の通り、社会における僕は(ここでの振る舞いと比較すると)まるで牙を抜かれた獣のように大人しいものなのだ。

 それどころかただの一度も牙など生えたことはない。艷やかな唇をめくりあげれば可愛らしい乳歯がその姿を覗かせているに違いない――これが社会に投影された僕の虚像であり、つまり紛れもない実像なのだった。

 三十代が間近に迫りつつも一向に定職を求める気配を見せず、会話をしても終始無難でユーモアの欠片も無い。碌な趣味すら持っておらず、ましてや将来の夢や希望などあるはずもない。酒や女やギャンブルにハマり堕落的な生活を送ることすらせず、破滅的な人生の期待もできない。いったい生きてて何が楽しいのだろうか?笑うことはあるのだろうか?怒ることは?泣くことは?(再びキュレーションサイトの疑問符)

 だいたいこのように評価されているのであれば冒頭の言葉も頷ける。大部分は無気力がもたらした結果なのだけれど、見方によっては世俗的な執着を捨てた仙人のようだと捉えられなくもない。「霞を食べてそう」などと言われなかっただけマシなのかもしれない。

 しかしながら実際には優良健康児である若者に向かって少食そうという評価はやっぱり失礼じゃないか?少なくとも僕は嬉しくなかった。僕を評した言葉はそのほとんどが正しくない。

 僕は、世俗的な雑念に塗れまくっていて、色恋に対しては積極的な姿勢だし、エッチなことには多分の興味があり、常に劣情を催している。草食で少食というのは全くの誤りで、大飯食らいの肉食、もしくは何でもござれの雑食で、ジャンクな食べ物も大好物だ。人の食べかけだって平気で味わって見せる。そしてシャキシャキとした若いものよりも、熟したものの方が好みなのだ!

(最近旦那とはご無沙汰で……)

 投げかけられるはずだった言葉がぐるぐると頭の中を回り続けている……

写真

 

「ずっと前から気になってたんだけど」

 テーブルを挟んで向こう側に座っている彼が口を開いた。どうやら私になにか言いたいことがあるらしい。遠慮気味の口調からは、随分と逡巡した様子が伺えた。

「なに?」

 わざと冷たく返事をしてみる。グレーのシャツを着ている私の小胆な恋人はやはりドキリと身を竦ませた。ここにきていっそう決心を鈍らせたに違いなかった。

「嘘だよ、怒ってないよ」

 ふふふと笑ってみせる。その言葉は彼への気遣いだったが、愉快な気分なのは本当だった。彼も白いマスクに隠れた唇をわずかに緩ませたみたいだ。疫病の流行以降、私達の生活も大きく変わっていた。口元を覆う布はその代表的なものの一つだった。
「じゃあ言うけど、お店の料理をカメラで撮影するでしょ?あれやめてほしい。そのあいだに料理も冷めちゃうよ」

 そんなことを気にしているとは意外だった。たしかに彼は、料理に限らず、写真を撮るという行為をほとんどしない。

「冷めるって言っても一分もかかってないよ。それにヒロくんはいつも先に食べ始めてるでしょ」

「いやまあそうなんだけど。料理の撮影ってみっともない気がしない?食事に向き合って楽しんでいないと言いますか」

 時々、敬語になるのは何かを話し合うときの彼の癖だ。

「楽しんでるからこそ記録したいんじゃないの」

「そうかなあ。誰かに見せたりとかそういう部分ばかりが先行してる気がするんだけど」

インスタ映えみたいな?」

「そうそう」

 これが彼にとっての核心だったのだろう。ようやく言いたいことを吐き出せたようで露骨にすっきりとした表情に変わっている。

「でも私SNSやってないよ」

「え、そうなの」

「登録だけしてるのはあるけどね。昔は友達の投稿を見たりしてたけど、最近はアプリ開くのも億劫でずっと放置してる」

「じゃあなんのために写真撮ってるの?」

「なんのためにって普通に思い出に残したいからだけど」

 お互いの質疑応答があまりに間抜けだったので思わず笑ってしまった。彼の方はそうは感じなかったようで新たに湧出した疑問を解消すべく必死に何かを考えているようだ。

「でも写真ってあんまり見返さないでしょ」

「うん。そうだね」

 彼の意見を首肯する態度に嬉しそうな顔をしている。勢いづいて「それなら……」とさらなる言葉を紡ぎかけたので、私も負けじと持論を展開してみる。

「でもね、それでいいと思うんだ。たとえ数年に一度しか見返さないとしてもそれで思い出を懐かしむことができるでしょ?懐かしむということは当時の感情を追体験するということだと思うの。もちろん同じ密度っていうわけにはいかないけどね」

 だから写真っていうのはその瞬間を詰め込んだタイムカプセルみたいなもの、と洒落た文句を言ってみる。

「私達の記憶は完璧ではないから、大切な物事でさえもだんだんとボンヤリ薄れていってしまう。やがて記憶が完全に失われてしまったら、ある意味では経験の消失とも取れるわけでしょ。それは少し寂しいことだと思うから、何気ない日常の出来事も思い返せるようにしたいの。それが大事な相手との記憶ならなおさら」

 ポケットからスマホを取り出してカメラロールを遡る。

「ほらこれなんてヒロくんがまだ大学生の時の写真だよ。私はこの時のことよく覚えてる。たまに写真をみるたびに思い出してるからね。私もその頃に戻れた気がして、その一瞬だけタイムスリップできるんだよ。すごいでしょ」

 彼にスマホを手渡す。

「うわ、懐かしいなあ。こんなに明るい髪色なんて今じゃ考えられないよなあ」

 その時、ちょうど料理が運ばれてきた。要求通りに、私は撮影することもせず、ナイフとフォークを握る。果たしてきょうの日の記憶は彼のカメラに残るのだろうか。当の本人はいまや夢中になって過去の写真を見ている。

 ここのラーメン美味しかったよなあ、途中でガソリンが切れて大変だった、たしかこの前日に骨折したばかりだったんだ、嬉しそうに思い出を語る彼を見て私も同じ気持ちになった。これからも素敵な人生を二人で積み重ねていければいいなと心から願った。
「この頃からマスクをしてるんだね。もう二年近くになるのか。 ……あれ、このお店ってたしか僕が全額支払いをしたんじゃなかった?そういえばまだ返してもらってないよ。ねえ?いや、あれ、いただきます、じゃなくて」

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 草が生えた。口元が綻ぶ。思わず笑みを浮かべずにはいられない。

 草が生えた。荒涼とした死の大地に、ほんのわずかではあるが、たしかに新しい生命が芽吹いた。実に三十余年ぶりのことだった。

 かつてこの惑星は豊かな生命に満ちていた。複雑な生態系の中であらゆる生命は他者と干渉しながら生きていたのだ。到底すべてを知ることはできないほどの多種多様な生物がこの世に誕生した。

 その一方で絶滅した種も数え切れないほどあった。かつて栄華を極めた種ですら、茫漠とした時間の中でその姿を消した。それは長い地球の歴史にすればわずか一瞬の煌めきに過ぎなかった。

 そして我々ホモ・サピエンスがおよそ二十万年あまり前に生命を受けた。アフリカ大陸を起源とする二足歩行の動物はやがてその支配域を全世界に広げ、生態系の王座に新たに君臨することになった。

 我々の紡いだ歴史は、やはりこれまでと同様に刹那に過ぎなかった。しかしそれがこの美しい惑星における最後のものになった。

 私が幼かった頃、すでに我々の世界は宇宙にまで広がっていた。先人たちが見上げていたばかりの青い空は、やがて暗闇として目の前に現れたのだ。草木の生い茂る大地や生命を育む海洋を遥か眼下に眺めながら、ついに我々は神の領域へと手を伸ばしていた。圧倒的な支配者たる人類にとって地球という惑星はいささか狭すぎたのだ。

 人類は他の惑星へと進出をはじめていた。地球の歴史上で最も支配的な生物となった我々の努力の結晶たる叡智を持ってすればテラフォーミングなど決して夢物語ではなかった。大国同士が競い合うように宇宙開発に乗り出し、自国の科学技術を互いに誇示した。

 宇宙にばかり目を向けた人類はだんだんと故郷への愛情を忘れていった。人々にとって地球はもはや唯一の存在ではなくなっていた。実際その頃には地球以外の惑星への移住計画が具体的に進められていた。そして他の惑星を巡る国家同士の争いは激しさを増していた。そうなれば我々の行き着くところは決まっていた。歴史は繰り返すのだ。

 かつてのそれとは比べ物にならないほどの激しい争いが行われた。他の惑星すら掌握するほどの科学技術による攻撃は、地球に住む生物をすべて死滅させることに何らの困難も持たなかった。こうして我らが青き惑星は、ある生物種の傲慢極まる振る舞いにより、その積み重ねてきたすべてを灰燼に帰すことになった。

 残されたのは地球外に脱出することができたわずかな人々だけだった。我々は他の惑星で生活することを決めた。もちろん地球上での生活よりずっと不便なものだった。

 しかしそんなことは故郷を失った悲しみに比べれば小さな問題だった。我々の想いはやはり母なる地球の元に有った。草木の生い茂る大地や生命を育む海洋が何よりも恋しかった。

 そして、草が生えた。己が手ですべてを壊してしまった星に新しい生命が芽吹いた。古き友人よ、君が最後に遺した言葉は正しかった。草は生えたのだ。

 草が生えた。これから気の遠くなるような時間をかけて、地球はかつての姿を取り戻すかもしれない。おそらく私はそれを見届けることはできないだろう。それでもその可能性の小さな萌芽を確認できただけで十分すぎるくらい幸福なことに違いない。

 いつの日かきっと、あの素晴らしい惑星の遺伝子を受け継いだ私たちホモ・サピエンスの子孫が、再び地球の大地を踏みしめることだろう。そこでとびきりの笑顔の花を咲かせることを信じている。